2巡目の四国遍路・その5
愛媛県南部
第1日目、羽田→松山→
40番・観自在寺→
龍光寺→(戸雁泊)
第2日目、
42番・佛木寺→
明石寺→
大宝寺→古岩屋(泊)
第3日目、
45番・岩屋寺→松山→
円光寺→松山空港→羽田
2000年 11月21日(火曜日)晴れ
嵐の中の出発となった。
前夜遅く、内閣不信任案が否決された。 その後、季節はずれの風雨が雨戸をたたいた。
眠れぬ一夜が明けた。
羽田に着く頃、雨も上がり、天気は急速に回復した。
97年に空港→市内の新道が出来、JR松山駅への時間が短縮となった。 松山駅は時ならぬ人出。
駅舎のリニューアルと、鉄道唱歌100周年、宇和島城築城400年などを記念して32年ぶりにSLを走らすという。
(マドンナ姿の出札係) |
(松山・SL復活) |
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改札口もみどりの窓口も全て和服姿の駅員。坊ちゃんとマドンナの服装だ。 特急・宇和海を待つ間にSLが汽笛を鳴らし、子供たちがブラスバンド。全市を挙げての記念式典か。
宇和島では40分ほどあり、駅前の観光案内で情報を仕入れ、昼食の場所を聞いた。
駅ビル1Fの洋食屋さんか隣のラーメン店がご推奨。洋食屋さんは満員だったので、ラーメン店で味噌ラーメン。こってりとした豚骨スープで旨かった。
バスは、途中まで川沿いの道だが、トンネルを抜けると右手に宇和海が光り、左手にミカン畑が連なる景勝地を走る。
時折、歩き遍路とすれ違う。
観自在寺
(40番・観自在寺)
40番札所前で降りると観自在寺はすぐ。
お参りして、写真を撮り、町をぶらついてバス停に戻る。
風が強く気温が低い。
宇和島への戻りも順調で、やはり海がきれいな道だ。
来るときすれ違った歩き遍路を追い越す。
今日は務田(むでん)の民宿泊まり。
SLを迎えるJR宇和島駅では、記念式典の準備か、大勢の人が集まっていた。
JR予土線は宇和島を出るとすぐ山登りを始める。 20分ほど登って開けた平野が務田。
務田から龍光寺への道は、田圃を通り戸雁の部落を抜けるとすぐで、民宿の「稲荷」も龍光寺への道すがらだ。
龍光寺には大きな銀杏の木があり、落ち葉を集めていたおばさん(住職の奥さんか?)に話を聞く。
龍光寺
(41番・龍光寺) |
(岡山からの女遍路) |
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「今年の夏は、日照りと大雨が交互に来て、夏前に小さなギンナンの実がたくさん落ちたので、ギンナンはほとんど実らなかった。
実れば拾って皮を取るのが面倒だが、実らなければそれはそれで寂しいものだ。」
遍路宿「稲荷」に戻る。
2階の3室が客室。隣には、岡山県からという5人づれの女性。
風呂に入りまもなく夕食。家庭料理ながら大したご馳走だった。
刺身は3種、他に鰹のたたき、酢の物はタコ、タコの湯がいた味噌合えもあり、エビのフライに野菜の煮染め、みそ汁に香の物という豪勢さ。
隣室の5人は9時すぎまで盛り上がっていたが、あとはピタリと静かになった。
2000年 11月22日(水曜日)晴れ
寒さで何回も起きた。
6時55分発の、バスがあるので、早めに「森の鼻」バス停に向かう。
ところがいくら待ってもバスが来ず、折り返しのバスに聞いたら、朝1番のバスはこのバス停に寄らずに直接「成妙(なるたえ)」に向かうという。
バス停に注意書きが必要だ。
で、走って成妙方面に向かう。
後ろから来た軽トラが止まって乗らないかという。
喜んで乗せてもらう。
車だと5分も掛からない。
佛木寺
(42番・佛木寺)
佛木寺は静かなたたずまいの寺で、早朝のためひっそりとしていた。
境内には香川から来たという車遍路だけで、納経所の女性から御朱印をもらう。
前回の筆が誰かを訪ねると、住職の手になるという。
何年経っても誰が書いたかはおよそ判るとのこと。
8時20分の務田発のJRに乗るため、帰りは半分走って来た道を引き返す。
およそ40分足らずで務田着。数人の乗客が列車を待っていた。
列車が来る間、お年寄りと世間話をする。
務田から宇和島に出て、渡船で九島に渡り、釣りをするのが楽しみとか。
上り列車で宇和島に戻る。昨日来たSLが列車名を変えて松山に戻るという。その記念行事で人が集まっている。
普通列車に乗って、卯之町へ。
明石寺
(43番・明石寺)
JR卯之町から明石寺へのみちは、迂回路と山越えの道がある。 山越えの道を選ぶには、旧市街を抜け、聾唖学校の脇をたどる。
散歩の老婦人と一緒になる。 毎日1時間かけて、明石寺を往復するという。
途中、新四国八十八カ所の石碑の矢印がある。 山の中に八十八の寺のご本尊を模した石像があるという。
駅から20分程で明石寺。 紅葉が美しい。
来た道を戻る。SLの汽笛が聞こえる。
(重文・開明学校)
市街地に戻るとすぐ、おじさんが話しかけてきて、時間があるなら「開明学校」と「宇和町民具館」にお寄りなさいとアドバイスしてくれる。 古い町並みを歩くとすぐ開明学校。
明治初期に町民の寄付で建てられた小学校で、今では国の重文に指定されているという。
説明文に曰く。
町の篤志家の寄付でこの時期に設立された学校は、松本の開智学校とこの開明学校で、両者は提携関係にある。云々
明治の洋館の建築が興味深い。
その前が、民具館。
(宇和町民具館の展示)
江戸から明治、大正、昭和にかけての民具がところ狭しと陳列されている。 1Fはその倉庫。
時間をかけてゆっくり見たい博物館だ。
この付近の町のたたずまいも、古い町がよく保存されている。
ぎりぎりで、卯之町の駅に戻る。
特急で1時間一寸で松山。卯之町で女性の遍路姿を見かけ話しかける。
松山駅では、まだ袴姿の駅職員が居たので、女遍路と記念に写させてもらう。
(松山駅の女遍路)
この人は、旭川の人で、遍路をはじめて2週間目。 昼食を駅のうどんやで一緒に摂り、身の上話をしたりする。
今日の予定は特にないとのことなので、大宝寺→岩屋寺まで道案内することになり、13:00発のJR急行バスに乗る。
バスは砥部を過ぎ、山道に入る。切り立った尾根を登り切って久万。
久万の町中を20分程歩き、杉に囲まれた山道にさしかかると大宝寺は近い。 左手の民家が1週間ほど前火事に見舞われたとかで後かたづけしていた。
大宝寺
(44番・大宝寺)
大宝寺は杉の大木に囲まれた寺で、急な石段の上にある。
11月の遍路は静かで、歩いても汗をかかないのが良い。
ゆっくりお参りを済ませ寺を辞す。
焼けた家の前の売店で孫の土産のお手玉を買う。 火事の話を聞き、大宝寺まで火が及ばなかったのが良かったと思った。
伊予鉄バス(伊予鉄久万バス)の久万営業所とJRバスの営業所は500メートル位離れており、乗り換えは至って不便。
16時10分発の上直瀬行きバスは、多くの学童を乗せ、宮ノ前、中野村を経由し、下畑野川から上畑野川から明杖、河ノ内を往復して1時間かけて古岩屋に着いた。里の秋を十分満喫した。
国民宿舎・古岩屋荘は紅葉につつまれていた。
今年は紅葉が2週間ほど遅く、11月終わりに盛りが来たとのこと。
冷泉だが、れっきとした鉱泉で、大宝寺からの遍路道が県道につきあたったところにあり、歩き遍路に人気のある宿だ。
半分ほどの入りで、静岡から来たという、ジャンボタクシーチャーター組がにぎやかだった。
ジャンボタクシー運転手さんの話。
香川県丸亀の琴参タクシー鞄d話0877-24-1250
今回は、8人乗りを3台チャーターしてもらった。
高知空港に迎えに出た。帰路はしまなみ街道を通り新幹線尾道駅まで。
このパーティーからは毎回お呼びがかかる。
料金は1日、60,000円 〜 65,000円。高速代、運転手宿泊料などは別。
9人乗りだが8人乗りにしてもらい、荷物の場所を確保する。
××泊で、どこからどこまでという連絡があれば旅程を組んで見積りする 1回あたり3〜4泊で、20〜30ヶ寺前後の遍路旅を3回〜4回企画すれば、1巡出来る勘定になる。
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2000年 11月23日(木曜日)晴れ
早起きする。
一面の霧。国民宿舎は霧の中。
温泉に入る。遍路宿で温泉に浸かれるのは数少ない。ここはその一つ。
朝食を、旭川からの遍路とご一緒する。
今日の予定は、岩屋寺を往復し、10時のバスで久万へ。
往復はお参りを入れて2時間と見たが、早めに出発する。
清瀬橋が出来、トンネルが出来て、岩屋寺入り口までは思ったより早く着いた。
折しも、紅葉が終わりかけており、落ち葉が無くなった白い枝、針葉樹の緑の間に真っ赤な色がちりばめられていた。
岩屋寺の入り口から、石段を20分程登ると岩屋寺。
途中は、杉だけでなく照葉樹の大木が散在し、霧が晴れかかって深山の趣がある。
岩屋寺
(45番・岩屋寺)
岩屋寺は山の中腹にわずかな平地をみつけて建っており、屋根の上には大岩壁がそそり立っている。
昨年秋、住職(大西完善師)の講演があって横浜に話を聞きに行った。
住職はその話しを覚えていてくれて、雑談に花が咲いた。
岩屋寺入り口のバス停の前の「小椋商店」には、干した「マタタビ」の実があり買い求めた。
来た道を清瀬橋まで戻れば、上直瀬からのバスがつかまる。 時間が余ったので「古岩屋荘」まで歩きロビーで休ませてもらう。
バスは、昨日1時間かけたところを20分ほどで久万。
JRバスの停留所まで歩き、旭川からの女遍路と別れ、1人で松山に向かう。
(松山市内・円光寺について)
松山では別の用事があった。
数年前に、小学校時代の友人が亡くなり、松山の円光寺に葬られているという。
円光寺
円光寺は、松山市駅に近く、銀天街というアーケードに面している真宗の寺。
住職のお母さんが丁寧に応対してくれ、お墓参りをしていると、住職も顔を出してくれた。
住職の話では、この寺に子規の句碑があるというので見せてもらい、話を伺った。
7代前の住職が「明月上人」。この人は書で有名な人で、子規の句も、
「風呂吹を喰いに浮世へ百年目」と
「冬ひさぬ蔵沢の竹明月の書」
というもの。
市役所のHPに資料の請求をしたら、明月和尚や蔵沢の資料を送ってくれた。
句碑の拡大写真と共に紹介したい。
(円光寺・子規の句碑1) |
(円光寺・子規の句碑2) |
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松山には、子規の足跡が多く残っているのだろう。
ほんのちょっとした滞在ではとても廻りきれるものではない。
子規についてはいろいろ資料もあるが、明月、蔵沢などは資料が少ないので、送ってもらった「愛媛県史人物」を抜粋して記しておく。
明月/蔵沢について
松山市役所のHPのアドレス。
松山市役所
市駅から空港行きのバスは旧道を通ったが、渋滞はなかった。
リムジンはJR駅からの出発でよく時間が変わるのだそうだ。
空港には早めに着いた。
空港ではじゃこてんとビールで遍路旅の無事を感謝した。
次回は浄瑠璃寺からの遍路になる。
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