「天下統一」全大名制覇への道 (温候さん著)




・葦名家(南陸奥国)

1.開始時の状況

総武将1、総兵10、8万石、1回の「兵の募集」で得られる兵力は1。国内の城は全てレベル10以上。こちらは、レベル20の会津城にいるだけに序盤で滅びる事は有り得ない。また、同盟国は越後国の上杉家のみ。

周囲の状況は、最上家と同様なので省略。


2.基本戦略

基本的に最上家の場合と変わらない。ただ、常陸国の佐竹家と接しているだけに、北陸奥・出羽を押さえる前に北関東に進出する必要があるかもしれない。

ただし、今回はリセット無しで行う事にする。


3.実戦編(その1)

3ー1.国内統一編

始めはとにかくやる事が無い。なにしろ、大名の葦名盛氏自身以外は武将がいないのだから。ともかく、「兵の募集」で兵力を少しずつ増やしながら、年に1・2回の「計略」で周囲の城のレベル低下を狙うしかない。そうしている間に、在野の武将が加わるのを待つしかない。

1551年秋、最初の「計略」に成功する。これで、須賀川城をレベル10→8とする。これは、2城目を手にする日は意外に近いのかも。

1552年秋・1553年春と「計略」に連続で失敗。その間に、須賀川城はレベル9に回復。これは、先はまだまだ厳しいのか。

1553年秋・1554年夏、またも「計略」に連続で失敗。しかも、須賀川城はレベル10まで回復。

1554年秋、またも「計略」失敗。この時点で兵力26なので、「強襲」で落とす事を考慮すべきか?

1555年夏、遂に耐え切れずに兵力31を持って須賀川城に侵攻。「強襲」3回でレベル10→7まで落としたがこちらの兵力も17まで減少。

1555年秋、再び兵力19で須賀川城に攻撃。「強襲」3回でレベル7→5まで落としたが、こちらの兵力も10まで減少。

1555年冬、待望の武将(平田駿河守)が我が軍に加わる。手持ちの兵力は5。もう半年早く来てくれれば良かったものを…

1556年秋、2度の大雪と操作ミスに阻まれて1年後にやっと須賀川城に再攻撃を掛ける。兵力は24まで増えたものの、城レベルも7まで回復していた。「強襲」を3回掛けるも、またもレベル7→5に落とすだけで、兵力は12まで減少。

開始5年で、須賀川城のレベルを5落としただけ(しかも、待てば回復する)という惨状に、続行を断念する。


3ー4.反省点

「計略」が6回中成功1回だったのが大誤算。1回あたり金50と兵力1を消耗しているにも関わらず、失敗を続けている間に城レベルを初期値まで回復されてしまったのでは話にならない。

後半の「強襲」の連続による激しい消耗は確かに大きなミスであるが、「計略」による資金不足や城レベルの回復を考えると「包囲」中心による長期戦は難しい状況だったのも確か。

次回は、「計略」を使用せずに兵力を貯えるのに専念する事にする。「計略」中心に徹して、幸運に恵まれるのを待つのでは、あまりにも情けないので。後は、「計略」は成功した直後に攻め込める時に実行するって事ですな。


4ー1.実戦編(その2)

いきなり、最初のターンの「兵の募集」で兵がいないと言われる不吉なスタートとなる。

1555年春、10万石・総兵34で兵力の上限まで後3となったので、須賀川城への攻撃を開始する。「包囲」×2・「強襲」でレベル10→8、こちらの兵力は34→31。

1555年夏、再び須賀川城を攻撃。「包囲」×3でレベル9→6とする。

1555年秋、3度目の須賀川城への攻撃は「包囲」×3でレベル6→4。ここで落とせなかったのは失敗だった。案の定、1555年冬に大雪で動けず、1556年春には兵力が上限に達してしまった。

1556年春、4度目の攻撃で遂に須賀川城を落とす。残念ながら、敵将 二階堂盛義は切腹したため、武将数は増やせなかったが、これで11→14万石となる。

1556年夏、三春城を攻撃。「包囲」×2・「強襲」×1でレベル12→9の兵力44→37。

1556年秋、第2次三春城攻撃。「包囲」×3でレベル10→7とする。

1556年冬、金上遠江守が配下に加わる。大雪で動きが取れなかったため、1557年春には兵力が上限に到達。

1557年春、平田駿河守が配下に加わる。第3次三春城攻撃を行い、「包囲」×2・「強襲」×1で落城させる。ついでに、(移動忘れで)会津城にいた配下に二本松城へ「計略」を掛けさせたら見事成功して城レベル14→11となる。これで20万石到達。

1557年夏、二本松城を攻撃。「包囲」×1・「強襲」×2で落城させる(実は「包囲」資金が1回で尽きたためだったりする)。これで26万石到達するも、今後の資金に不安が過ぎり始める。

1557年秋、第1次小高城攻撃。「包囲」×3でレベル10→8とする。白川城の軍勢により須賀川城を失う。

1558年夏、第2次小高城攻撃。2度の大雪の間にレベル10に回復していたが、「包囲」×2・「強襲」×1でなんとか落城させる。1回で落とせない城は秋に仕掛けてはいけなかったと反省する。

1558年秋、須賀川城を奪回する。これで、34万石到達。いよいよ、南陸奥国平定まで後1城。ただし、残る白河城はこれまでで最強のレベル15。しかも、ここを落とすと北関東の佐竹家と国境を接する事となる。とはいえ、小大名となるためにはここを落とすしかないのだが。(他の城のレベルを上げて支配率80%ってのも不可能ではないが)

1559年夏、兵力90により第1次白河城攻撃を行う。何故か敵軍は退却し(どこへだ?)、「包囲」×3でレベル15→10とする。これで南陸奥国の支配率80%となり、小大名となる。

1559年秋、第2次白河城攻撃を行い落城させる。凶作だった事もあって、残高がほとんど尽きてしまう。この時点のデータは以下の通り。

44万石、総兵108

主な敵

伊達家 56万石、総兵111
佐竹家 35万石、総兵63
北条家、32万石、総兵48
扇谷上杉家 66万石、総兵134
上杉家、237万石、総兵602
今川家、265万石、総兵531


4ー2.戦国大名への道

とりあえず、現時点では上杉家とまともに戦える状況では無い事と、北関東に強敵がいない事、伊達家が我が陣営と互角の戦力を持っている事が分かった。よって、上杉家との同盟が敗れない事を祈りながら、奥州平定を目指す事とする。

1560年秋、やっと収穫の時を迎えたので、北陸奥国への侵攻を開始する。気付いてみたら上杉家が下野国まで平定しており、これで常陸国まで押えられてしまったら我等は奥州の地に閉じ込められてしまう事に気付く。だからといって、打てる手も無いのだが。北陸奥国の中新田城でほぼ同数の伊達軍に完勝して、北陸奥国の2城を落とす。

1560年冬、上杉謙信の死亡により上杉家は上杉景信が後を継ぐ。それに伴い、我が最上家との同盟は消滅。遂に、恐れていた事態が到来したと言える。とりあえずは、レベル21の会津城が落ちる事は有り得ないだろうが、下野国から来る可能性も否定は出来ないし、頭の痛い事である。とりあえず、予定を早めて鉄砲集めを開始する事にする。幸い、CPには不足いていないし。

1561年春、北陸奥・出羽の3城を落とす。これで84万石到達。残高が非常に厳しいので、「城の普請」や「大名との同盟」といった手は一切打たない。

1561年夏、北陸奥国で1城を落とすも出羽国からの伊達軍に1城を奪回される。

1561年秋、佐竹家が同盟を申し込んでくるが断る。北陸奥国の中新田城で伊達家の主力部隊を壊滅する。北陸奥・出羽で2城を落とし、108万石に到達。これで戦国大名となる。直後に、朝廷からの使者を迎え、出羽守護に任命される。200近い金を取られ、泣きそうになった。

また、上杉家が常陸を平定し、我が国は完全に上杉領に包囲された事になる。どうやら、上杉との決戦は避けられぬようだ。


現在のデータは以下の通り。

108万石、総兵195、南陸奥・北陸奥・出羽国の半分を領有

主な敵

佐竹家 9万石、総兵3
上杉家 264万石、総兵488
扇谷上杉家 73万石、総兵96


今川家 333万石、総兵586
織田家 137万石、総兵381


4ー3.坂東進出編

ともかく、越後と北関東の上杉領に侵攻する以外にやりようが無い。恐らくは、上杉軍の主力は西の対今川戦線に向いているだろうから、その隙に北関東に足場を築きつつ鉄砲を貯め込んで決戦用戦力を整える、といった戦略で進めよう。

1561年冬、上杉家が扇谷上杉家・今川家と同盟を結ぶ。これで、西の今川勢と戦っている背後を突くという基本構想が崩壊する。なんとか、鉄砲隊(現在、1部隊に10あるだけ)が整うまでは時間を稼ぎたいのだが…

1562年夏、我が軍の主力部隊は下野国に侵攻し上杉軍を破り1城を落とす。一方、出羽国では残る1城を落として平定を果たした直後に、上杉軍が侵攻して来て1城を奪われる。

1562年秋、下野国で1城を奪い出羽国で1城を失う。今のところ、上杉家も主力部隊をこちらには向けて来ていない模様。

1562年冬、東北地方は大雪。下野国でお互いに1城を奪い合う。

1563年春、東北地方はまたも大雪。扇谷上杉家から同盟の申し込みを受諾。下野国で1城を落とし、上杉軍37を壊滅する。予算の都合で1将しか動かせなかったが、上杉軍もまるで動き無し。金が無いのはお互い様の様だ。

1563年夏、下野国で我が軍主力部隊にほぼ同数の上杉軍が攻め込む。雨のために鉄砲数22が生かせず、戦わずして退却。

1563年秋、下野国にいた主力148を出羽国に向けて上杉軍142と激突。明らかに有利な状況で攻撃順にも恵まれていたにもかかわらず、こちらも兵20を失い辛うじて勝利を収める。1部隊が兵力33の士気38の状態で右端に追い込まれていただけに、攻撃順に恵まれていなければ際どい勝負だったに違いない。結局、出羽国で2城を取り戻し下野では1城を奪回される。(実は、下野で主力決戦を挑んで惨敗を喫してやり直していたりする…)

1563年冬、東北地方の大雪で動きが取れない間に下野国で1城を奪回される。これで、下野国の残る1城(孤立している)以外は、対上杉家開戦前の状況に戻っている…

1564年春、越後への侵攻を開始し1城を落とす。南陸奥国に進入して来た上杉軍を撃退。何故か、上杉家の動きは相変わらず鈍い。1ターン
で1城程度しか攻撃しない事が続いているが、兵力を増やしすぎて維持費で手一杯なのだろうか?

1564年秋、越後国で上杉軍200の攻撃を防ぎきる。鉄砲32で撃ちまくり別働隊攻撃を数回かけながらも、何故か勝ちきれずに引き分けに終わってしまったのには不安が残るが、相手の兵力は半減させる。下野国にも攻撃を仕掛け1城を落とす。

1564年冬、下野国で上杉家の武将 吉江政勝(兵49)引き抜きに成功する。鉄砲隊は全て大雪の越後にいるために、下野国では無理をせずに待機する。上杉家も、引き抜きにより戦力比が逆転したためか動かず。

1565年春、越後・下野で再び引き抜きを仕掛けるも成果無し。越後国で主力部隊が上杉軍と激突。こちらも兵18を失うが上杉軍に致命的な打撃を与えて1城を奪う。

1565年夏、資金不足のため動けず。引き抜きにより兵も上限に達したため兵力も増やせない。下野国で引き抜きをかけまくるも尽く失敗。何故か上杉家は、南関東を制しつつある扇谷上杉家との同盟を破棄する。越後の主力部隊に上杉軍が攻撃を仕掛けて来たが、鉄砲の連射によりあっけなく撃退。こちらも兵力の消耗が目立ち始めていたので、相手の兵力が110強で済んだ事に救われる。

1565年秋、下野国で2城を落とす。レベル12の城を落とすのにてこずり、「強襲」を1回使い兵12を消耗する。越後国では、上杉軍の攻撃に対して雨のため退却。

1565年冬、今川家が上杉家との同盟を破棄する。思えば、5年前にこの駿越同盟が結ばれたおかげで我が軍がまともに上杉の精鋭と向かい合う事になったのだが、これで何とか一息入れる事が出来るのか? そろそろ、自力で上杉家に勝てる目処も付きかけて来たのだが。また、扇谷上杉家が代替わり(太田資正が相続)のため、我が国との同盟が破棄される。下野国で1城を奪う。

1566年春、足利義昭公の御一行が毛利家に身を寄せられた。太田家(元の扇谷上杉家)が上杉家と再び同盟を結ぶ。常陸国からの上杉軍により、下野国で1城落とされる。

1566年夏、下野国で更に1城を落とされる。こちらは、資金不足で動きが取れない。

1566年秋、越後国の主力部隊に上杉軍135が攻め込んでくるが完勝。下野国でも2城を奪回する。

1567年夏、冬・春と東北・北陸で大雪が続く間に越後・下野で防備を固められてしまい、常陸国を含めてレベル20前後の城が3つ立ち塞がる。

1567年秋、越後国で「計略」を成功させレベル22→18とする。すかさず、主力部隊で攻め込みレベル19→10に落とす。

1567年冬、再び東北・北陸で大雪。上杉家が同盟を申し込んでくるが断る。他に接している勢力が無い以上は選択の余地が無い。下野国で1城を奪回。常陸国からまたも上杉軍が攻め込むが、霧の中での乱戦の末に撃退。

1568年春、なんとか北陸地方は雪が止んだので越後国で先程の城を再び攻撃。レベル10→13に回復していたが、敵軍が篭城せずに退却したおかげでかろうじて無傷で落とす。(「包囲」1回分の資金しか無かった)

1568年夏、久しぶりに「兵の募集」を行う。すぐに上限に達してしまったが。気付いてみれば、4年近くの間、ほとんど兵力を増やせていない事になる。鉄砲は60を超え、まともに闘えばほとんど無敵なのだが(雨天例外)、最近は大雪と資金難と城レベルとしか闘っていない気がする… またも資金不足のため、軍は動かせず。越後で、次の城がレベル15まで上がっているのが気になるが、「計略」が失敗して打つ手無し。

1568年秋、越後国に主力を集中して新発田城(レベル15)を落とす。その間隙を衝かれて、下野国で2城を失う。また、「計略」により下野国のレベル25の城をレベル19まで落としておいた。

ちなみに、現在の状況は以下の通り

167万石、総兵498、奥州3国と越後・下野の一部を領有


主な敵

上杉家 183万石、総兵 339
太田家(旧扇谷上杉家) 184万石、総兵 409
今川家 587万石、総兵 1142
毛利家 719万石、総兵 801
島津家 135万石、総兵 421


なんか、すっかり2強ムードですな。いつのまにか、上杉家を太田家が上回ってるし…


4ー4.坂東平定編

ともかく誤算続きだった。7年で60万石程度の増加しか出来ないとは思わなかった。上杉軍の精鋭にてこずりながらも、数の圧力で押しつつあったのだが、まさかあれだけ城レベルを上げてくるとは思わなかった。ともかく越後国で壁を破ったので、このまま越後→上野と進む事が出来る。上杉との戦力比はすでに逆転しているので、後は戦力を支えるだけの国力を坂東の地で得るだけだ。

1568年冬、東北・北陸地方は大雪。またも上杉家が今川家と同盟を結ぶ。下野国で1城を奪回。

1569年春、下野・越後で1城ずつ落とす。下野国で上杉軍を撃退。

1569年夏、またまた資金が尽きて動けず。越後国で上杉軍を撃退。

1569年秋、下野国で「計略」成功レベル22→17とする。そのまま攻撃を掛けて「強襲」も1回使用して落とし、遂に下野国を平定。越後国でも1城を落とす。

1569年冬、南関東の太田家の軍勢が下野国に侵攻。1城を奪われる。

1570年春、上杉景勝が元服して上杉家の家督を継ぐ。それに伴い上杉家と今川家・太田家の同盟が破棄される。今川家が、西国の覇者毛利家と同盟を締結。越後国で1城を落とす。

1570年秋、下野国で太田軍150に対して220の軍勢で攻撃をかける。余裕で撃破して1城を奪回。越後国でも上杉軍を破り、遂に越後国を平定。

1570年冬、越後・下野の両国の部隊を動かし上野国の2城を落とす。

1571年春、今川義元が死亡し今川長得が家督を継ぐ。今川・毛利同盟は破棄される。毛利家と今川家が再び同盟を結ぶ。この時点で、我が国は資金が尽きて動けず…

1571年秋、常陸国に侵攻し太田城(レベル22)を落とす。下野国では太田軍と1城を取り合う形となる。

1571年冬〜1572年夏にかけて常陸国を平定。これで295万石まで到達。夏には、今川家が越後国に攻め込んで来たが、春日山城(レベル23→21)に篭城して防ぐ。

1572年秋、越後国春日山城で今川軍の攻撃を篭城で防ぐ(レベル24→18)。下総国で3城を落とすが、上野国では2城で攻撃失敗(篭城と雨のため退却)。

1572年冬、上野国で太田軍150が攻め込んでくるも我が軍149で撃退。攻撃順に恵まれて完勝。下総国で1城を落とす。下総国で今川軍300を我が軍150で撃退。上野国でも、先程太田軍を撃退した部隊に今川軍282が攻め込んでくるが、こちらも兵20を失いながらも撃退する。さすがに、今川軍は今までの相手とは物量が違うが、士気の低さに救われている。

1573年春、上野国で再び今川軍の攻撃を受け、雨のため退却する。越後国では再び春日山城で篭城して防ぎきる(レベル24→18)。

1573年夏、下野国で一揆発生。上野国で落とされた分と併せて300万石まで低下。春日山城で篭城成功(レベル21→17)。がら空きとなった上総国に侵攻し、1城を落とす。

1573年秋、春日山城で篭城成功(レベル17→12)。「城の普請」を忘れていたので際どいところだった。上総国で3城・下総国で1城を落とし、上野国で今川軍を撃退。このターンは、雨や部隊の都合で接近戦が多かったが、士気でやや上回っているおかげで、消耗しながらもなんとか勝利を得ている。

1573年冬、早くも資金不足で上総国の別働隊以外は動けない。下総国で今川軍200が攻め込み我が軍150と激突するが、操作ミス(間違って鉄砲打つべきところで前進させた…)で兵17を失うも余裕の勝利。上総国で2城を落とし平定。

1574年夏、下野国で攻撃をかけるも雨のため退却。上野国で太田軍121の攻撃を余裕で撃退。

1574年秋、下総国で今川軍300ずつがは下総国で我が軍147・244の2城に攻め込んでくる。共に、別働隊により多少の被害を受けるも完勝。春日山城でまたも篭城成功(レベル24→21)。

1574年冬、下総国で今川軍276が我が軍の秋の戦いで消耗した129の部隊に攻撃してくるも、霧の中で激しい射撃の応酬により撃破。上野国で上杉軍を撃破し上杉景勝を討ち取り1城を落とす。下総国で兵233を集中して今川軍194を打ち破り古河城(レベル15)を「強襲」で落とす。これで、下総国を平定し361万石。

1575年夏、今川家が毛利家との同盟破棄。春日山で今川軍の攻撃を篭城で防ぐ(レベル30→28)。上野国で太田軍128の攻撃を我が軍193で余裕で撃破。

1575年秋、武蔵・上野国で2城を落とし、400万石突破。

1575年冬、葦名盛氏が死亡し葦名盛興が家督を継ぐ。我が家は同盟は無かったので、CPが少し減る以外は特に影響は無い。上野国で上杉軍を破り1城を落とす。これで上杉家は滅亡。武蔵国で今川軍280の攻撃を受けるも、我が軍183で撃退する。

1576年夏、武蔵国で1城を落とす。

1576年秋、武蔵国で4城・上野・北信濃・相模で1城ずつを落とし武蔵・上野を平定。全て「強襲」で落としたため兵力を50弱消耗するも、これで相模国を除く関東地方を平定。

現在の状況は以下の通り。

477万石、総兵1063(鉄砲装備部隊14)、東北・相模国以外の関東全て・越後・北信濃の一部を領有

主な敵

真田家(旧今川家) 422万石、総兵461
毛利家 1130万石、総兵1760

これで、事実上は2強ですね。毛利家の兵力1760は脅威ですが、こちらの鉄砲数ならば確実に勝てますね。最大の敵は資金難ですか…


4ー6.2強激突編

上杉家を事実上片付けた後も、太田・今川と強敵との激突が続いた。共に、主力部隊には1隊に兵50が当然となっていたが、士気の低さとこちらの鉄砲隊の充実の前には敵ではなかった。春日山城で北陸勢を足止め出来たのも効いたのだろう。今後の西国兵に備えて、ここで押える戦略は続行しよう。既に今川は終わったも同然であり、今後は毛利との一騎打ちとなろう。

1576年冬、武蔵・上野の平定により浮いた戦力を相模・北信濃の前線に回し始める。しかし、資金不足で攻撃が掛けられない… なんとか、相模国で1城を落とす。

1577年春、相模国で2城を落とす。

1577年夏、相模国で真田軍118が攻め込んでくるが、我が軍150で霧の中の戦を完勝。北信濃国で2城を落とす。

1577年秋、駿河国に攻め込み真田軍191を196の軍勢であっさりと破る。相模・北信濃・甲斐・南信濃・駿河で1城ずつ落とす。相模国を平定し、547万石となる。

1577年冬、甲斐国で2城・駿河・北信濃で1城ずつを落とし、北信濃国を平定する。南信濃国の真田領の2城を毛利軍が落とし、いよいよ激突は間近の模様。

1578年春、毛利家から同盟の申し込みがあるが当然断る。事実上2家しか残っていないのに同盟結んでどうするの? 甲斐国の戦いで真田昌幸を討ち取り、甲斐国を平定。南信濃国で毛利軍300で攻め込まれ、雨のため退却。毛利軍は士気も今までの相手より高く(140程度)、上杉軍程
ではないが今川軍あたりよりは強敵となりそう。

1578年夏、真田家(旧上杉家)は扇谷上杉理興が家督を継ぐ(今後は、扇谷上杉家ですか。ややこしいね。)。駿河国で1城を落とす。これで、現在590万石。

1578年秋、毛利軍300が南信濃で我が軍200に攻め込んでくるが、鉄砲隊により撃退する。駿河国で1城を落とし、駿河国を平定する。

1578年冬、南信濃国の2城で今川軍300に我が軍200で攻め込み、合わせて15の犠牲で勝利する。南信濃で2城・遠江で1城を落とす。扇谷上杉家(旧上杉家)が滅亡した。

1579年春、毛利軍が遠江国で300の兵で我が軍の兵298に対して攻めてくる。前線の3部隊は士気170台(武将の軍事は13・15・14)という毛利軍最強であろう軍団であったが、我が軍の鉄砲12×3の前に半分以上の兵を失い退却して行った。南信濃国でも2城で兵300で攻め込んで来たが、こちらの部隊は士気も低く(全て110台)我が軍の兵189・200の前に為すすべなく敗れ去って行った。

この時点で、総兵力は毛利家1172に対して我が国は1242と逆転した。石高は向こうの方が2倍以上だが…

1580年春、三河・南信濃で毛利軍と争っている状況。711万石で総兵1249。

1580年秋、毛利隆元が死亡し毛利元康が家督を継ぐ。

1581年春、毛利元康戦死のため黒田如水が毛利家を継ぐ。現在の状況は以下の通り。

842万石、総兵1369、鉄砲装備部隊数16、東北・関東・越後・東海・中部を領有(美濃国の一部以外)

黒田家 1306万石、総兵400

石高こそまだまだ相手の方が多いが、総兵力400まで減らした以上は勝負あったも同然であり、ここで終了とする。


4ー7.まとめ

とにかく、越後・下野での上杉家との争いが辛かった。なにしろ、1560年代の大半はこの両国での攻防に費やしたのだから。初めて下野国に侵攻した2年後には、越後国から出羽国へ攻め込んで来た部隊の対処に追われた事もあり、ほとんど侵攻前の状況に戻されてしまったのにはまいった。

始めは、毎度の事とはいえ上杉軍の士気の高さにかなりの苦戦を強いられた。なにしろ、50・25・25で攻め込んでも、上杉軍の20×6の
前に50の部隊が攻めきれず士気を落としている間に、25の部隊があっさりと壊滅に追い込まれてしまうのだから。もし、上杉軍が1部隊あたり30〜40の兵力まで育っていた状態でぶつかれば、未だ鉄砲数の整っていなかった我が軍は敗れ去っていたかもしれない。なにしろ、兵力50×3(鉄砲10が2部隊)ですら敗北を喫した事もあったのだから。



それでも、妙に上杉家の動きが鈍かった(ほとんどが1ターンに1城しか攻め込んでこなかった)事もあって、下野・越後の両戦線で徐々に押して来て、更に兵力・鉄砲とも充実しつつあった訳だが、そこで第2の誤算が発生した。上杉家が越後・下野で城レベルを上げての防衛戦の構えで来た事だ。

既に、開戦直後の時点で常陸国の国境ではレベル20を超えており、我が軍も常陸への侵攻を諦めていた。ここで越後国においては、秋に上杉家に先手を取られ、冬・春は大雪で動きが取れず、夏には資金不足といったパターンで身動きが取れぬ間に目の前の城がレベル20を超え、出羽国国境線の2城に封じ込められてしまった。下野国でも、常陸国からの部隊に度々北部を襲われて南部平定に専念出来ない間に防備を固められてしまった。

そうしている間に、160〜180万石で停滞してしまい兵力も上限に到達してしまった。おかげで、予算も常に不足して出兵・包囲のための資金も苦しい状況が続いた。おかげで、数年間の間兵力がほとんど動かないという異様な状況となった訳である。

最終的には、越後・下野で戦力の集中と「計略」や「強襲」の使用によりなんとか城を落した事により、越後・上野・下野を押えて一気に石高U
Pを計れた訳であるが。その間に中部・東海・北陸に加え南関東まで進出して来た今川軍と正面から当たる事になった訳である。(扇谷上杉家もいたけど)

もっとも、強大な物量を誇る今川家や、その後にぶつかった毛利家はそれ程手強い相手ではなかった。なにしろ、士気が我が軍以下なのだから、鉄砲数が整いつつあった我が軍の敵ではなかった。その点では、上杉家や九州勢(島津家・竜造寺家)が伸び損ねた事が、今回の最大の勝因と言えるかもしれない。

これで、最上・葦名の両家での統一を達成した訳であるが、やはり背後を気にしないで済む利点というのは大きかった。少なくとも上杉家の無力化に成功すれば、後は勝ったも同然であろう。今回も、対上杉軍の敗北によりリセット(正確にはLOADしただけ)を余儀なくされたのが心残りであるが。




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