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しかし、やっぱりやめとけばよかった、カモ・・・。
宗教がかってないってのは本当で、勧誘行為も、念仏唱えも一切なかった、
楽しい運動会〜って雰囲気だったんですが、参加者が、なんと2000人もいたんです。
ほぼ9割以上が信者だと思うので、練馬だけでもこれだけいるのね、と驚愕。
まあそれはそれとして、たくさんの人が居すぎると、孤独感って拍車が掛かるんですな。
知り合いも極めて少ない場ですからなおのこと、わりと当然。
それに先に気がつかなかった自分が悔やまれます。
混沌とした考えが渦波のように押し寄せてきて、流石に泣き叫ぶ訳にもいかず、
ずっと黙って耐えているしかありませんでした。当然交遊範囲も広がらず。
普段は悪意まるだしの継母がやけにフレンドリーで、明らかな表裏を感じ、
周囲の笑顔の人間、全員が実はそうなんではないかと思ってみたり。
山の上の丘っぽい運動場だったんですが、今山火事になったら壮観だろうな〜とか。
行き帰りは車で送って頂いたんですが、その閉鎖感も拍車をかけて、
家屋に火炎瓶を投げ込みたくなる衝動にかられたり、
「事故ってくれ〜」と本気で願ったりもしました。
もちろん表には全然出さなかったんですが、ほんと、かなりカオスですな。
周囲の人に迷惑をかけまいと気張っているので、精一杯でした。
太宰の本を持っていったのが、唯一の救いだった、かなあ。
一人で人垣から離れて、のんびり読んでる間だけは、
本当の意味での笑顔でいられた、気がします。
本日、青梅にて立正佼成会練馬教会の運動会、らしい。
なんだか駆り出されてしまった。ま、今回は前回(11/15)の山登りと違って、
宗教がかってない、らしい、のでとりあえず人がいっぱいくるならいいか、
親孝行にもなるし、と気楽な気持ちで参加。騙されてたりして(笑)。
しかし、信者というのはほんとに勧誘には熱心、ですなあ。
僕はその勧誘行為をされるのが嫌いなのでナンなんだけど。
本人の心理を考えると、2通り。知らない人が可哀想、なんていう同情心か、
周囲に広めていかないと、自分が信じ続けるだけのココロが維持できないのか。
どちらにしてもあんまり見ていていい感じはしない。
あるいはそれとも、宗教団体に対する感謝と、奉仕の気持ち、だけなのか?
だったらすごいや。でも、てことは、個人の考えより宗教の教えの方が上なのね。
まあ、だからこそ信者になれちゃうんだろうけど。僕は自分をそこまで、棄てたくないなあ。
「どんなひと?」を密かに更新、おマヌケ写真を追加。
日記や掲示板、見てない人にはないしょ、です(笑)
表裏一体、同じ意味じゃん、と思われる方が多いと思いますが、
僕はそれらの違いを自分なりに認識した上、
「素直」でありたいとは思っていますが、
「我が侭」でありたいとは思っていません。
その違いは只一点、「相手に何を期待するか」に尽きます。
「素直」でいるということは、とても勇気が要る事です。
精神エネルギーを大きく消耗する事もあります。
なぜならそれは、相手にも素直な反応を期待するからです。
心を裸にした自分をどう認識されるのか、それに対してどう反応されるのか、
あるいは反応されないのか、それは全て相手次第、です。
それゆえ当然、自分が深く傷つくこともあります。それはとても、怖い事です。
しかしそれを避けて「自分の望む反応」のみを「求めて」しまうようでは、
それは「我が侭」になってしまうと考えます。
もちろん、深い関係で、お互いを支えあっているような仲では、
そういう事もたまには許される事もあるでしょう。
でも常日頃からそれでは、守りを固めた上での、只の甘えです。
どのような反応が返ってきても、それを自らの糧としていく。
素直であり続けるには、そんな気概が必要であると考えます。
相手の個性を尊重する。そして、傷つくリスクを背負ってこそ、
仕合わせを掴む事もいつかは出来るとも思います。
素直であるということは、充実した人生を送る上で重要な意義を持つ、
とても素晴らしい事だと思っています。
そのために努力している人には、僕は好感を持ち、応援します。
またもちろん、今の自分の課題でもあると思っています。
一言でいえば、近しい人に対しても、いつでも他人になってもいい状況を
無意識下で維持しているかのように見える。
「女心は秋の空」と言われるが、そういった変わりやすい心の変化を、
許容してしまえる環境、の維持をしているように見える、とも言えるだろうか。
そんな人に接近したら、いつか傷つくという思いが発生してしまう。
自分が弱いのが原因だと思うが、それで一部友人に迷惑もかけてるので、
かなり深刻。なんとかしたい。
ただやっぱり、ほんとは、信じたいと思っている。心の底から。
だから、そう思っていても、近づいていきたいし、そういう姿勢を保っている。
が、そう思っている限り、相手はいい気持ちはしないだろう。
そして、結局避けられる。おマヌケな悪循環。
ただ、これが今解った時点で、なんとかなっていく、だろうか。
ついで、死について、もう一件。
世間では、「死にたいとか言う奴は死なない」という意見を多く見かける。
僕はこれに否定的だし、また、とても危険な考えだと思う。
もちろん、死にたいと言いふれまわり、周囲に心配をかけるだけかけさせ、
2〜3日後にはコロっと回復し、心配して何かをしてくれた人にも、
感謝の気持ちすらほとんど見えない、そんな輩も少なからず、いや結構、いる。
もちろんそんな奴は大嫌いだし、何度もそういうことをした人間の、
死にたいなどという台詞は、僕もそう簡単には信じない。
でも、問題はそんなことじゃない。
そういう風潮が広まる事により、本当に救いを求めている人々が、
SOSを発信できない状況が発生してしまう可能性があるのが危険、だと思うのだ。
そういう人々は、世間というものに縛られ、風潮にも敏感である事が多いと思う。
そういう意見を一般的な事として広める事は、もともと選択肢が狭く苦しんでいる人間の、
選択肢をさらに狭め、追い詰める行為に他ならないと、僕は思う。
もちろん逆に、そう思う事によって、接する側が、自らを安心させたい、
という見方もある。あるいは、そんな状態になった経験がある人には、
自己嫌悪もあるかもしれない。そう思いたい気持ちも、理解できる。
しかし、本当に守るべきはどんな存在なのかを、広い視野を持って考え、
死にたいと発言する人間全体をそう考え発言する事は、いかに危険であるかを、
今一度考えてみて欲しいと思う。
で、なんでこんな事話すような状態になったのか、というのをちっと話しますと、
近ごろ「自分って何?」と考えるようになってきたのが原因なのです。
今の考えから先に言うと、「人の記憶」が、自分自身そのもの、というものです。
僕を知る人は、会ったり話したりすれば、僕を僕だと認識してくれますよね?
その記憶自体が「自分自身」に他ならない、のではなかろうかと。
僕の中にも、僕の知ってる人の記憶がいっぱいあります。印象もあります。
でもなぜだか、僕だけかもしれませんが、自分の中には、そういう意味での
自分というものだけは、存在していないんですよ。あるのかもしれませんが、
それはもう雲を掴むようなもので、まるで実体感がない。
それが原因で、「自分」というものが解らなくなってきた。
そこででてきたのが、解りやすい「人の記憶」というものです。
なあんだ。人が自分を記憶している限り、自分は消えやしないんだ。
なんて思うと、死に対する恐怖なんてのが、かなり薄れてきたという訳です。
で、薄れた状態になってはじめて、死というものをわりと気楽に、客観的に
考えるようになって、ちょっと楽になったんですね。そんな経緯がありました。
この後は蛇足ですが、また、人と「長く深い関係」を望む自分に対する納得もできました。
もしかしたら、今の僕にとって、「人に自分を記憶してほしい」という欲求、
それこそが生きたい欲求そのものであり、全ての自分の行動の基になっている、
のではないかと思っています。曲を作るの然り、こうして日記を書くのも然り、
休むのだって、そういう事をするための力を溜める、ためなような気がします。
でも、どうして「自分って何?」と考えるようになったかというのは、
好みのコと出会ったらどう自己アピールしようかと考えた事に端を発したのは内緒(笑)。
・・というのは半分冗談で^^;、たまに自分が自分でなくなる感覚があるんですよ。
まるで自分の体が自分のものではないような、不思議な感覚に襲われるんです。
その原因自体は今はなんとなく解っているんですが、それがきっかけではありました。
楽観視、という言葉がある。こういう時に、人から良く言われる言葉だ。
でも、例えば「悲しくなったら泣けばいいじゃん。ただそれだけのこと」
ならば解るが、それさえ言えない人が多そうな中、果たして楽観を謳う人の中で、
「死んだ方がマシだと思ったら死ねばいいじゃん。ただそれだけのこと」
と言う事ができる人は果たして何割いるんだろうか?
だから、そう思えない限り、本当の意味での楽観じゃないんじゃないか?と、
ついひねくれて反論したくなってみたりする。
逆にそう思えれば、楽になれるのかもしれない、などとふと思ってみたりもする。
思うに、みんな死という単語に対して敏感すぎる。
また、安易にそれに対して反論をしすぎる。
それだけはやっちゃいけないとか、いつか仕合わせになれる日がくるよ、
なんて言われたって、なんの真実味もないよ。
ほとんどのそういう人間は、足りないのはふれあいであり、スキンシップ、
そしてその継続だと思う。(とか文章にすると陳腐に成り下がるんだけれども)
まず握手するとか、頭を撫でるとか、ある程度それに耐性ができたら、
しばらく抱きしめるとか、そういう事の方が、言葉なんぞより
何倍も効果があると思う。
世の中には、それを知らない、あるいは知っていても出来ない人間が、なんと多い事か。
照れや守りが入ってる時点で、人は人を救えるはずがない。
・・あ〜あ。明日読み返したら、莫迦な事いってら、と思うんだろうな(笑)。
うちの場所は覚えてくれたかと思うので、またいつでも遊びにきてください。
特に、酒もってきてくれれば大歓迎です(笑)。
最近、読書にはまりだしまして、太宰治の「斜陽」を読み終わりました。
今は「人間失格」を読んでます。
太宰ってなんとも、孤独な芸術家という部分を逆に前面に押し出し個性にしてる、
というような印象があって、格好つけず、とても深い部分での共感が得られます。
花見に来てた方からは「依存してるんじゃないか」とのご指摘もありましたが、
宗教や哲学の思想への依存、をしている人は周囲に結構いたりするんですが、
それとは明らかに違うんですよ。
太宰自身もマルクス主義活動をしていましたが、思想への依存心はおそらく
ほとんどなかったんじゃないかと思います。このへんは人間失格でも語られてますね。
そういう思想への依存は、してしまった時点で、芸術家ではなくなるとも思います。
あまりにも同一視してしまうと、愛人と入水自殺するハメになりますし^^;、
ある程度の方向性の違いは認識しています。だいたい、僕はあんなにモテません(笑)。
時代背景の違いもあるでしょうね。孤独な人間をかまいたくなる女性心理、
というのは現代では、男女同権運動からの女性の自立心の向上が進んだ現在、
かなり薄れてきている部分があるんじゃないでしょうか。
もしかしたら、男性社会の中での自立心を養うので精一杯で、そういう女の性に
気づく暇もない、どいう背景もあるかもしれませんね。だとすれば、
本当に同権が進んで、余裕がでてくれば、また違ってくるんでしょうか。
なんともお花見の季節ですな。昨日は石神井公園に散歩にいってきたんですが、
平日なのにすでに昼間っからできあがっとる人がいっぱい。
花見したいですのう。石神井公園で今度日曜(4/9)午後辺りに開催する
企画を立ち上げたいところではあるんですが、ただ、面子が集まるかどうか。
今の所僕と他に1名で、やろー、という感じになっているんですが、
2人では少し寂しいので、他賛同者がいらっしゃいましたらメールにて
ぜひご連絡をくださいまし。お待ちしておりますん。
それから、誕生日のお祝いの言葉とか下さった方、本当にありがとうございました。
年度が変わるのと年齢が変わるのがいっぺんに来て、新たな決意も2倍、
になるのが利点でしょうか(笑)。
これで29歳です。とにかく、30代になるまでは、30代らしく、
もうちょっとどっしりと落ち着いた、安心できるような印象を
人に与えられるような人間になっていきたいな、と思っています。
ただ、もう1ヶ月位前までは、まさにその正反対なんて状態でしたから^^;、
前途多難です。今後も、周囲の皆さんにはいろんなご迷惑、ご心配をおかけして
しまうかもしれませんが、どうか宜しくお願い致します。