競馬GAME大全・ファミリージョッキー



(5)ベスト競馬ダービースタリオン(ファミコン、1991年12月) その1


・概要

 言わずと知れた、超有名シリーズの第一弾。

 プレイヤーは、馬主・牧場主・調教師を兼ね備えた存在として、馬の生産(配合)・調教・出走レース選択を行う。

 この手のGAMEは、光栄の「ウイニングポスト」シリーズを始めとして数多く出ているが、この作品が(コンシューマでは)元祖である。


・周辺事情(神話の始まり)

 作者の薗部氏の競馬初体験が、1988年の有馬記念というのはあまりにも有名な逸話である。このGAMEの製作はそれから始まった訳であるが、このGAMEの真の主役というべき存在が、アグリキャップ・スーパークリック・イナリアン・サッカーボール・アイリスフウジンといったオグリキャップブーム時代の活躍馬(をモデルとした馬)である事は、この作者の原体験に深く関わっているのであろう。

 ともかく、現在「競馬GAME(競馬SLG)」として知られる、競走馬の生産とローテーション管理をメインとする育成SLGは、本作品からスタートしたといって間違いない。

 より正確には、PCにおいて「クラシックロード」やその前進たる「優駿」といった同タイプのGAMEは存在した。しかし、それらは知名度においても、実際のGAMEの出来においても遥かに劣るものでしかない。

 故に、本作品の位置は野球GAMEにおける「ファミスタ」、コンシューマRPGにおける「ドラクエ」にも匹敵するであろう。いや、本作品が無ければ「競馬SLG」というジャンルの存在そのものが無かったかもしれないのだから、それ以上の存在というべきかもしれない。例えば、「落ち物パズルGAME」における「テトリス」のような。

 このように、GAME史上に間違えなく残る歴史的作品でありながら、そのスタートは決して恵まれたものではなかった。なにしろ、発売元のASCIIが発行するGAME雑誌「ファミコン通信」においてさえ、その存在は通常程度のものでしかなく、そのまま永遠に忘れ去られてしまっても不思議無いものであったのだ。

 もっとも、当時1991年といえばファミコンはその歴史的役割をほぼ終え、任天堂の後継機スーパーファミコンが軌道に乗りつつあり、PCエンジン・メガドライブとの差を徐々に付け始めていたのだ。ちなみに、1991年夏には「ファイナルファンタジーW」11月には「ゼルダの伝説」が、翌1992年には「ストリートファイターU」や「ドラゴンクエストX」が発売されている。

 この様な時期のファミコンソフトとは、現在(2001年夏)にゲームボーイやドリームキャストのタイトルの開発を始める様なものであり、世間の注目を集めるわけも無い。まして、今までコンシューマには存在しなかったジャンルであるのだから。(そもそも、育成SLG自体がコンシューマでは馴染み薄い時代であった)

 しかし、女神はこの名作を見捨てはしなかった。「ファミコン通信」でさえ発売直前の新作紹介と「クロスレビュー」で扱ったきりで忘れ去ったこの作品に対して、厚い支援を送り続けるメディアがあった。その名を「ファミコン必勝本(当時はヒッポンスーパー)」、「ファミコン通信」のライバル誌である。

 「ネット界」というものが(ほとんど)存在しなかった当時においては、GAME雑誌の影響力というのは現在とは比べ物にならない程大きく、GAME雑誌の存在抜きでヒット作を生み出すのは(他メディアでの人気を利用した、いわゆる「キャラ物」は除いて)ほとんど不可能な時代であった。ちなみに、「ときめきメモリアル」がNIFTY上の盛り上がりから始まっての大ヒットを飛ばすのは、ここから2年強のちの話である。


 そして、「ダビスタ」の立ち上がりを支えたメディアは唯一「ヒッポンスーパー」であり、更に言えばライター成沢大輔氏であった。彼が誌面で「ダビスタ」及びその続編(「ダビスタ全国版」)を強く推し続け、遂にはASCIIも出さなかった「ダビスタ」の攻略本まで出す事になる。(「全国版」の攻略本は、ASCIIも発売)

 成沢大輔氏は、かつて「ファミコン必勝本」誌面でも「CB成沢」を名乗っていた事から分かるように大の競馬ファンであり、「別冊宝島 競馬読本シリーズ」でも書いているような競馬ライターでもある。

 そして、彼は「全国版」のヒットで「ダビスタ」の名が競馬ファン・GAMEファンに知れ渡ると共に、「ダビスタ伝道師」と呼ばれるようになる。(同時期の「ヒッポンスーパー」のライターには、「ぷよぷよ」をファミコンディスクシステム版から推し続けた手塚一郎氏もいる)

 ちなみに、以下に当時の「ヒッポンスーパー」誌上における当作品の扱いを記す。

1991年11月号:新作紹介(1/4P)
1992年1月号:レビューコーナー(10点満点中9点、成沢氏はメガドラ担当)

(ソフト発売日)

   2月号:扱い無し(「手塚一郎が選ぶ1991年FCソフトベスト10」にも載らず)
   3月号:討論記事「スポーツゲームバトルロイヤル」で成沢氏絶賛
   8月号:「ダビスタを一生遊ぶ本」発売決定
   9月号;「全国版」新作紹介(1P)
   10月号:「全国版」レビュー(8点)、「全国版を一生遊ぶ本」発売決定
   11月号:成沢氏「全国版」レビュー(1P、満点)
1993年1月号:「風雲SLG城」で競馬SLG特集(1P)

 筆者には、成沢氏の内面や「ヒッポンスーパー」誌上で何があったか、ASCIIや薗部氏との間にどんなやり取りがあったのかは分からない。

 ただ誌面の推移を見ると、91年11月・92年1月号は通常の(人気の無い)新作と同じ扱いであり、ポイントになるのは92年3月号であると言える。

 この号では、何を思ったのか5Pも費やして「スポーツゲームバトルロイヤル」という討論会記事を掲載している。具体的には、成沢氏が「ダビスタ」を、他の2人がそれぞれ「テクモスーパーボール」・「マリオオープンゴルフ」を褒め称えるという企画である。

 ちなみに、「ダビスタ」で2P、他の2タイトルで1Pずつ使い、最後の1Pでまとめとなっている。また、冒頭から成沢氏の「「ダービースタリオン」は(10点満点で)100点だ!」という発言が炸裂している。

 実際、ここでの成沢氏の推薦の弁はかなり力が入っており、単に「競馬物」としてではなくSLGとしての魅力が充分に伝わって来る名文であった。当時競馬に全く興味なかった筆者も、この記事を見て購入を決意したものである。(残り2本は、既に購入済みだったけどね)

 さて、偶然この様な記事がこの時期に企画された事が「ダビスタ」にとっての大きな追い風になったと言いたいところであるが、記事中で占める「ダビスタ」の割合の大きさと成沢氏の力の入り方を見る限り、とても偶然の事とは思えない。

 筆者が思うに、成沢氏からの「ダビスタ」記事への強い要請に対して、編集部側の「ダビスタ」単独特集ではあまりにリスクが大きいという判断により、あのような3本ワンセットの特集という妥協案が成立したのであろう。

 もっとも同じ号の中では、この記事とは別に2P使ってアメフトGAMEの特集もやっているが…

 さて、その後しばらくの間は誌面には「ダビスタ」は出てこないが、すでに編集部からGOサインが出ていたらしく、夏には成沢氏渾身の(多分)力作「ダビスタを一生遊ぶ本」が発売される。

 その後「全国版」が発売され、成沢氏は「全国版を一生遊ぶ本」を、後には筆者が攻略本史上で最も愛読し最も高く評価する名著「100万人のダビスタ」完成させる。

 なお、ASCIIは「全国版」のヒットを見届けてから攻略本の発売、「ファミコン通信」本誌で特集記事の掲載を行った。この特集記事(※2)は、特殊ROMを使用してのライバル馬同士の対戦という、ASCIIにしか出来ない卑怯な、そして当時の「ダビスタ」ファン心理をよく分かっている好企画であった。

 話をもう一度本作品の発売直後に戻す。91年末に発売されたこのソフトは、出荷数が少なすぎた事もあって僅かの間に店頭から姿を消した。この時期に購入した層というのは、「ファミコン通信」や「ヒッポンスーパー」の読者層(レビューでは高得点だった)なのか、オグリキャップブームで多数発生した若年層競馬ファンだったのかは今となっては分からない。

 ともかく、1992年春には「幻の作品」と化していた本作品は、「ヒッポンスーパー」の記事や口コミなどで購入を求める人口を徐々に増していき、その時点では市場に全く存在しなかった事が人気を高める事に繋がって行く。(「たまごっち」みたいなもんやね)

 そして、1992年5月の再販と8月の「全国版」発売により、購入したくても出来なかった潜在的ファン達が一挙に購入し、ここで真にヒットと呼べる売上を記録する事になる。

 そして、購入した内の何割かはこの歴史的名作の魅力にはまり込み、数百時間やり込んで他のGAMEが止まったままになったり、そのまま本物の競馬にはまり込む者も多数発生する事になる。(両方とも筆者の事だ)

 そして、その人気はスーパーファミコン版発売と共に爆発し、プレイステーション版では遂にミリオンヒットとなるに到る。(この辺の詳しい事情は、次号以降にて)

 こうして振り返ってみると、「ヒッポンスーパー」や成沢氏に関係なく最初から売り切れてたという、「ゲームを作った男たち」的な解釈をしたくもなろう。しかし、単に少数出荷→品薄→再販→ヒットというパターンなら、「F1サーカス」や「マジカルチェイス」等の例もある。

 また、初めてのプレイヤー(特に競馬未経験者)にとって、(いかにシンプルでも)決して取っ付きやすくなく、また見た目は地味そのもののこのGAMEを、投げ出す事無くその魅力に気付くまでやり続けるに当たって、成沢氏の記事・攻略本の果たした役割は大きい。

 当時は、発売直前の紹介記事以外では、成沢氏の文章しか存在しなかったのだから、もし成沢氏の存在が無ければユーザーは全て独力で本作に挑むしかなかった訳だ。

 また、「ヒッポンスーパー」は一応10万単位で売れていた筈なのだから、筆者の様に「ヒッポンスーパー」の成沢氏の文章見て購入を決意した人間は少なくない筈である。

 「全国版」の発売自体は、本作の発売直後の品切れにより決まっていたのだろうが、「全国版」のヒットの功績の一部は成沢氏の記事と攻略本にあると言えるだろう。

 ちなみに、本作の品切れにより「ダビスタ」の名前は早くから知っていても、実際にプレイしたのは「全国版」からという人は少なくないと思われる。この事も結果的には幸いしたのではないだろうか。

 何故ならば、本作はあくまでも未完成品であり、「全国版」で初めて完成した作品だといえる訳なのだから。(この辺の詳細は、別項と「全国版」にて)

 結果的に、本作の品切れ騒動で名前を売り、「全国版」の高い完成度が評価を確定させるという、理想的な形が取られた訳だ。

 さて、その後の続編達の話は、次号以降のそれぞれのタイトルにおいて触れる事にするが、ここまでの話の登場人物たちのその後について少し触れておく。

 作者の薗部氏は、スーパーファミコン版・プレイステーション版の大ヒットと、その間の独立によって、高額納税者ランキングの上位の常連となる。更に、実際の競馬においても、「スタープログラマー」や「ワコーチカコの初仔」等の馬主として知られている。

 基本的に金持ち嫌いの筆者だが、薗部氏が本当に「ダビスタ」を一人で作り上げたのならば、年間数億の年収を一生得続けても当然だと思う。例え、プレイステーション版を最後に「ダビスタ」シリーズと決別したとしても、彼への尊敬の気持ちは一生変わらないだろう。

 「ダビスタ伝道師」成沢氏は、宝島社(「ヒッポンスーパー」の出版社)から「ダビスタ」シリーズを出し続け、同社の「別冊宝島 競馬読本シリーズ」にも何度か書いていた。

 しかし、どこかで宝島社ともめて決別したらしく、気付いてみればASCII系で「ダビスタ」シリーズの攻略本を出す様になっていた。

 彼は、個人としては「ダビスタバブル」でもっとも美味しい思いをしたのではないかと思われるが、筆者を「ダビスタ」に(結果的には競馬にも)導き、「一生遊ぶ本」・「100万人のダビスタ」を与えてくれた彼への尊敬も、一生変わらないと思う。

 「ヒッポンスーパー」は、末期には「ファミコン必勝本」(筆者にとって歴代最高のGAME雑誌)の面影を完全に失い、次世代機(死語)時代突入直後に永遠の眠りに付く。

 かつてあの雑誌を支えたライターの内、ゲーマー出身の漫画家鈴木みそ氏や、山下章氏率いるベントスタッフ(こっちは、メインベーマガだったけど)は、成沢氏と同様にASCII系に移っていった。

 このあたり、ライターと編集部・宝島社との争いや、ASCII側の引き抜きといった嫌な事情が隠されている気がしてならない。

 ついでに言うと、「ポケモン」の作者としてあまりにも有名な田尻智氏も、昔は「ファミコン必勝本」でコラムを書いていたものだ。

 少なくとも、「ヒッポンスーパー」崩壊の原因が、それらのライター達との関係悪化に由来する事はまず間違いないと思う。

 そして時代は進み、「ダビスタ」を巡る人々の中心は競馬雑誌とBC最強馬系に移っていく。

(この部分は、次号掲載予定の「競馬GAME大全(第二回)」に続く)

※2:1992年12月18日号に掲載された特集「ダビスタGP」。薗部氏自らが選んだ、「全国版」に登場する最強ライバル馬8頭が、GT全12戦を闘いポイント制で順位を決定する、当時のファンにとってはまさに夢の企画。選ばれた8頭とその順位は以下の通り。

 1位:コウカイテイオー
 2位;アイリスフウジン
 3位;アグリキャップ
 4位:サッカーボール
 5位:スーパークリック
 6位:イナリアン
 7位:メジロマッコイーン
 8位:サクマチヨノオー

 ちなみに、前述した「100万人のダビスタ」内では、同様の企画を「ホーリックス」等のジャパンカップ出走外国馬を追加したメンバーで行っている。

 このような企画が2度も行われた事から、当時のファンの関心はスーパーファミコン版以降のBC系ファンとはまるで別物だった事が分かる。

・データ

 これまで紹介して来たタイトルと違って、本格的(JRA)競馬SLGたる本作では、騎手・ライバル馬・種牡馬・繁殖牝馬・レースといった各データは非常に重要なファクターとなっている事は言うまでもない。

 このジャンルにおいては、どのデータも実際の競馬のものを使用している事は当然であるが(ライバル馬のみはオリジナルの場合も多い)、本作においても当然実在の馬・騎手・レースを元にしたデータを使用している。(繁殖牝馬のみは名前が全く違うけど)

 ただし、1991年頃に作成されたデータだけあって、10年後の現在(2001年夏)から見るとなかなか驚かされるような点も少なくない。

 まずは騎手データからいってみる。主な騎手は以下の通り。ちなみに()内はモデル名とする。(以降も同様)

おたべ(岡部)
しばたま(柴田政)
ますお(増沢)
たき(武豊)
かわうち(河内)
よしとみ(柴田善)
よこのり(横山典)
てきば(的場)
みなみ(南井)
まつみき(松永幹)

 ここでまず目に付くのは、関東・関西の区別が付けられていない点である。これは、本作自体が関東のレースしか対応していないのだから、当然と言えるだろう。だからといって騎手も関東のみにしてしまったら、、当時も既に人気ダントツの武豊騎手を出せないのでこの様な形になったのであろうか?

 その他では、90年代デビューの若手がいないとか、(現在では)既に引退した騎手がいるというのは当然の事であるが、「てきば」・「みなみ」といったダビスタシリーズお馴染みの騎手はともかくとして、「ますお」(増沢騎手=当時の歴代最多勝ジョッキー)の存在には驚かされる。ちなみに、「ますお」が登場するのは本作のみである。

 また、20騎手という数でも分かる様に騎手の数が少ない。藤田騎手あたりはこの時点では実績不足もあろうが、田原騎手がいない事はかなり意外といえる。

 ちなみに、騎手が少ないために誰も乗ってくれないという事態があり得るため、絶対に乗ってくれるオリジナル騎手「おがわ」の存在がある。この騎手のモデルが、薗部氏を競馬にはめた張本人である事も結構有名な事実。

 続いては、本作(そして初期ダビスタ)における最大の顔というべきライバル馬達である。本作においては、主に以下のライバル馬が存在する。

アグリキャップ(オグリキャップ)
スーパークリック(スーパークリーク)
イナリアン(イナリワン)
アイリスフウジン(アイネスフウジン)
メジロヨルダン(メジロアルダン)
バンビーメモリー(バンブーメモリー)
メジロライオン(メジロライアン)
メジロマッコイーン(メジロマックイーン)
シルバーストーン(ホワイトストーン)
ホストヘリオス(ホクトヘリオス)
カルビソング(カリブソング)
タマノクロス(タマモクロス)
サッカーボール(サッカーボーイ)
ニッコーテイオー(ニッポーテイオー)
ダイヤアクトレス(ダイナアクトレス)
ホーリックス(同名)

 前にも触れた様に、88〜90年の活躍馬達という事が分かる。特に中心となるのが、89年古馬中長距離路線の3強アグリキャップ・スーパークリック・イナリアンと、90年牡馬クラシック路線のメジロライオン・シルバーストーン・アイリスフウジン・メジロマッコイーンであろう。

 もう少し前の活躍馬として、タマノクロス・ニッコーテイオー・ダイヤアクトレスの名前もあるが、薗部氏の競馬キャリア(88年有馬記念から)を反映してなのか、やや影が薄い。特に、80年代後半の最強馬であろうタマノクロス(タマモクロス)に関しては、本作でも能力は高くとも出番はやや少なめで、しかも次回作(全国版)からは登場すらしない。初めての馬券外した恨みでもあったのだろうか?

 ついでに、シルバーストーンの能力が結構高めなのは、91年秋以降の彼を知らずにデータを入れた以上はやむを得ないであろう。もっとも、次回作以降でも能力を下げたようには見えないが。

 次は、種牡馬データに行く。ここでは、種付け料順に主なところを挙げてみる。

ノーザンテースト
ミルジョージ
シンボリルドルフ
トウショウボーイ
マルゼンスキー
リアルシャダイ
モガミ
ミスターシービー
アンバーシャダイ
サクラユタカオー
ブレイヴェストローマン
ホリスキー
アスワン
ヤマニンスキー
スティールハート

 なんといっても、現在でも現役種牡馬なのがほとんどいない。少なくとも、当時も現在もGT級を排出している種牡馬は皆無である。これは、サンデーサイレンス(というよりトニービン?)参駒デビューの前後で、日本の種牡馬事情は大きく変わってしまったのであるから、仕方の無い事であろう。

 特に、シンボリルドルフの種付け料1500万円は、現在から見るとかなり笑えるが、ルドルフ・シービーの種付け料が2000万円を超えた事があるのは、明白な史実である。
 ちなみに、スーパーファミコン時代になって注目を浴びる事となるノーアテンション・スイフトスワローといったあたりも、この時点から存在している。ついでに、あのグランディがいるのも泣かせる。

 また、海外種牡馬という要素は全く存在しない。

 続いては、繁殖牝馬である。主なところは以下の通り。ここでは、()内にはモデル名の他に、の主な参駒も挙げておく。

ホワイトノリピー(ホワイトナルビー、オグリキャップ・オグリローマン)
ファーストレディ(ハギノトップレディ、ダイイチルビー)
ブランドシャネル(ダイナサッシュ、サッカーボーイ)
ミズタマ(チヨダマサコ、ニッポーテイオー・タレンティドガール)
プリンセスレイア(デュプリシト、ニシノフラワー)
ミアモーレ(メジロラモーヌ、メジロテンオー(苦笑))
タニノキョンキョン(スカーレットインク、スカーレットブーケ)
アキタコマチ(トウカイナチュラル、トウカイテイオー・トウカイティアラ)
ウェディングベル(ナイスディ、スーパークリーク)

 こちらは、GAME的に色々と想い出深い人も多いであろう。

 もっとも、この部分だけは元ネタとの名前が違いすぎるだけに、多くのファンにとっては非常に分かりにくかった筈である。その点のフォローのために、成沢氏は「ヒッポンスーパー」内で少しだけ紹介し、後に「ダビスタを一生遊ぶ本」内で計30頭分も紹介してくれている。

 更に、オグリキャップ(父ダンシングキャップ)の様に、GAME内には存在しない父を持つ馬の配合の擬似再現のために、「この種牡馬だと血統的に近い」なんて事も書いてくれている。裏に何があったのか知らないが、ASCIIと無関係という事を考えれば、信じられない様な熱心さである。

 実際には、ダイイチルビー配合(トウショウボーイ×ファーストレディ)を除けば、これらの実在名馬配合というのはまず本物に遠く及ばない馬しか生み出されないのであったが。それはそれで、POGの疑似体験とも言えそうであるが…

 実際、当時の一流馬(主なライバル馬に出ているような馬)の大半は、市場で高値が付きそうも無いような地味な配合の馬が多かった。そのため、モデル馬の種牡馬はGAME内でのパラメータが低めに設定されている場合が多い訳である。

 この点は、トニービン・サンデーサイレンス登場以降の、社台的なBEST TO BEST配合が支配する現在の競馬とは異なる訳だ。実際、アドマイヤベガ・アグネスタキオン・アグネスゴールド・ボーンキングあたりが前評判どおりに活躍する競馬って、どこか間違ってるって。いや、POGでの恨みじゃなしに…

 最後にレース形態だが、基本的には当時(おそらく1991年)のJRAのものに準じている。ただし、番組は基本的に関東のみで、関西で行われるGT(天皇賞・春、宝塚記念、マイルCS)のみが、番組に追加されている。(例えば、京王杯SCの次のレースに天皇賞・春がある)

 より正確にいうと、京都新聞杯・スワンSを含めた計5戦だけが例外という事になる。

 また、レースは1週で1日(8レース)のみが行われ、1開催が1ヶ月に対応しているため1年12開催となっている。このため、夏開催が2ヶ月分に短縮されている。また、裏開催(夏の北海道、秋の福島の様なローカル開催)も存在しない。

 この様に、レース数は大幅に減らされているが、基本的に下級条件が削られているだけなので、基本的にはそれほど気にならない。ローカル開催が無いのは当然気になるだろうが、本作の時点では関西すらなかったのだからそれ以前の問題である。そもそも、当時の筆者には一部のGTレースしか分からなかったので、関西が無い時点で気にならなかったが…

 しかし、レース名がちゃんと付けられているのは準OP以上だけで、900万以下は全て平場戦の様な名前になっている。もっとも、特別戦の場合は「特別」と書かれているが。

 なお、本作では夏開催が1回新潟・2回新潟になっているが、福島が工事だったのだろか。あるいは、容量の都合で競馬場データを少しでも減らしたかったのか?

 ちなみに、牝馬という要素が無いので牝馬限定戦も無し。「ダイヤアクトレス」みたいに、牝馬の「ライバル馬」はいるけどね。

 ついでに、レースは常に8頭立てであり、枠順に対応した帽子の色は正確である。


 全体的には、関西のレースが無い点を除けば、非常に良く再現されていると言えるであろう。少なくとも、「ファミリージョッキー」シリーズ以外にほとんど存在しなかった当時の競馬GAME事情を考えれば、いきなりここまでやってくれれば言う事無かったと思われる。

 もっとも、関西の競馬ファンがどう感じていたのかは不明であるが…

 逆に、筆者の様に当時競馬初心者だった者には、いきなり「未勝利戦」、「500万下条件戦」、「5歳夏の降級」、「本賞金」といった競馬のルールに直面させられるのは厳しいものがあったが、本作のおかげで本物の競馬に入るのがかなり容易になったのも事実である。それ自体が、危険な罠だった気もするが…




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