現代のシルクロード クンジュラブ峠越え |
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パキスタンから中国へ、カラコルム・ハイウェーと呼ぶ国境の峠越え山岳道路がある。最高点は、パミール高原クンジュラブ峠(中国名は紅其拉甫達坂)4943メートル簡単に述べると、両国の首都イスラマバードと北京を結ぶ現代のシルクロードである。全線完全舗装といっても、天候や道路状況によって一時的に通行不能になることもある。また高所にあるクンジュラブ峠越えの通行は、無雪期の盛夏に限るとされている。 私たちの時も、出発前から道路崩壊でカラコルム・ハイウェーは通行できないとの情報があった。関係各所に、問い合わせてもよく分からない。結局は、最寄りのフンザでも分からなかった。事故現場に来て、自分のこの目でやっと確認できたのである。わが国の、道路情報の早さ正確さには改めて感心した。 |
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成田発12時55分のPIA(パキスタン国際航空)は、北京経由でイスラマバード着20時15分、所要11時間、時差は4時間。機内サービスはノンアルコール、パキスタン滞在中はつらいが酒気なしを覚悟する。もちろん、持ち込みも厳禁である。 西洋造形美術とインド仏教が融合した仏教美術発祥の地、ガンダーラ地方の中心地タキシラへ。よわい重ねたら仏跡めぐりへとのんびり考えていたら、とんでもない。山登りと同じ気力体力脚力が必要で、40度の炎天下ひたすら夢を求めて遺跡群を歩き回る。 |
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ペシャムの朝は、アザーン(礼拝に集まれとの呼びかけ)の声で心地よく起こされる。谷の狭間を水量豊かに流れるインダス河、土地の人たちはこの川音が子守歌なのだが、慣れないのでいつまでも耳に残る。 | チラスでは、有名な岩に描かれたいくつかの仏塔の線刻画を見る。途中、山の斜面から温泉が流れ落ちていた。ウルドゥー語ではタタパニ、熱い水の意味である。周囲は樹木のない裸の岩山が現れて、ナンガパルバット8,125メートルの眺望を期待したが濃い雲の中であった。 |
本流とほぼ同じ水量のギルギット川が注ぐジャンクション(合流点)説明板がありここでグレートヒマラヤ末端とカラコルム、ヒンズークシュ山系を三分離する地形上の重要な地点とある。 | |
ギルギットは人口3万、昔からシルクロードの交易地として栄えてきて、現在でもこの地域の中心地。今までの悪路から想像もできないバザールの賑わい雑踏である。女性の姿はどこへ消えたのか、子供たちと白いシャルワール(民族衣装)の男性たちの世界となる。この国の女性は外出するとき、ブブカ(ショール風の黒い布)を頭からかぶっている。イスラム諸国への旅では、女性の服装は余り肌を露出しないように配慮すべきであろう。 | ここまで順調に走行してきたのに、土石崩れで通行止めとなる。岩石の累積量から推定して、除去整備には数日は要するだろう。近くには人家もないし、仮にあっても電話など通信手段はない。クンジュラブ峠越えは、惜しくも夢と消えたかとガッカリする。重いスーツケースを手にザックを背負い、土砂を乗り越え幾時間かフンザまで歩く覚悟を決める。 |
少し先の上流部側に、幸いにも通行止めで車が渋滞していたので交渉し、それに乗り込みフンザへ向かうことができた。明るく開けて、氷河の冷たい沢水が流れ落ちる地点にチャイハネ(茶屋)がある。ここは標高差実に5000メートル、氷雪に輝くラカポシ7788メートルの雄姿を仰ぎ見る絶好の展望台。山肌が大きく裂け崩れて、ガーネットの原石が落ちこぼれ広く散乱しているところへ案内される。 | ヒマラヤの秘境といわれた桃源郷フンザ(カリマバード)は標高2500メートル、長寿の里として有名だが、この時期はアンズ干しで屋根や庭先が黄色に染まるアンズの里でもある。ぐるりと広がるカラコルム7000メートル級の険しい峰々に囲まれ、緑のポプラ並木が風にそよぐ明るい大地上に、村々が散在している。すばらしい景勝の地ではあるが、山奥で交通不便のため観光客も少なく、ひなびた昔の風情を残している。 高度順化のため休養日を設定する。近くの氷河見物へ行ったり、王国時代のバルチット古城や村々をのんびりと散策する。 |
いよいよ待望のクンジュラブ峠越え、中国側宿泊地のタシクルガン3300メートルまで、未知への期待と緊張不安の連続する長い車の旅が始まる。カラコルム・ハイウェーの記念碑を確認、中国の絶大な協力を得て、20年の歳月を要し1978年開通、工事犠牲者は千人余りとも伝えられている。近年、ようやく外国人への通行が解放された。維持管理には、建設工事費以上の費用がかかると思われる。 | |
深い大峡谷の底から見上げる恐ろしい岩峰群、初めはもの珍しさでカメラを向けていたが、いつしかその景観に慣れてきて、つい居眠りをする。やがて問題の道路決壊流出区間、河川敷内に仮道路を埋め立ててあり車で通過できた。これができる前は、岩尾根を半日かけて越える歩行者用の仮の山道を作った。大雨が降れば川は増水して荒れ狂い、いつまた決壊するか分からない。パキスタン最後のスフト村で、出国の手続きをする。ここで、すべての旅行者はPTDC(パキスタン旅行国営公社)の峠越え専用車へ乗り換え、タシクルガンへ向かうことになる。これ以外の車両は通行禁止で、中国側では受け入れてくれない。 | |
氷河が足下に迫り、荒涼たるパミール高原が幾重にも連なり無限に広がってゆく。フンザから一気に2500メートルも高原を稼いだので、全員軽度な高山病の兆候が現れてきた。寒気、頭痛、気持ち悪くて、ホテルで作ってくれた昼食用ランチボックスに手をつけない人もいる。 平坦な国境のクンジュラブ峠、裏表に文字が刻まれたパキスタンと中国の石の標識がある。この日は快晴、ただ吹く風は冷たく悪天候の時は雪やみぞれが降るという。車で警備巡回中の、中国側係官と一緒に記念写真を撮る。手近な小山へ100メートルも登れば、標高5000メートルの大台へ達すると頑張ってみたが、時間不足と体への負担がきつく、これは無理と諦める。 |
タシクルガンへ明るいうちに到着しないと、中国の入国審査を拒否されて行動できず、ホテルに泊まることもできないので先へ急ぐ。タシクルガンの郊外で、パキスタン側のガイドはPTDCの車で戻ることになる。その先で、改めて中国側のガイドが小型バスと共に待ち受けてくれた。通行止め以上に心配していたが、中国旅行社の予約の誠実さには感心する。パキスタン時間より3時間進めて日本との時差1時間、22時30分でやっと暗くなってきた。標準時間は北京を基準としているので、広い国土のこと、別に新彊ウイグル自治区時間というのがある。それに換算すると2時間遅くして、現在は20時30分。ややこしいが時間の予約では要注意。 |
玄奘三蔵や大谷探検隊が通った、古道が断続して残っていた。その時、大谷光瑞は高山病のことをマウンテン・シックと書き残している。中国側でも悪路が続き、道路崩壊箇所がいくつかあり、強引に車で通過する。スバシ峠4200メートルを越える辺りで、軽い頭痛が再発。紺碧の水面に山影を映すカラクリ湖3700メートル、崑侖(コンロン)山脈の高峰ムスターグ・アタ7546メートルの眺望が最高。この山裾をぐるりと回って、タクラマカン砂漠の西に位置するカシュガルへ向かう。 | |
砂山、砂漠の乾いた道を行く時、烈風とともに物凄い砂塵に包まれて車内は砂だらけ、音に聞く砂嵐の襲来である。だから、フタコブラクダの睫毛は長いのだと教えてくれた。 計画通りに行き、道路通行止めで迂回路はなくイスラマバードへ戻されたら大変でしたネと笑い話にも余裕が出る。カシュガルからウルムチまでジェット機に乗り宿泊。更にジェット機を乗り継いで北京へ出る。 |
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(10年8月) | |
〈コースタイム〉 イスラマバード→12時間(270キロ)→ペシャム(泊)→11時間半(340キロ)→ギルギット(泊)→6時間(100キロ)→フンザ(2泊)→14時間(285キロ)→タシクルガン(泊)→8時間半(280キロ)→カシュガル(泊) ※ 走行時間合計52時間、走行距離合計1275キロ。 ※ 走行時間には休憩食事、見学時間などを含む。 |
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〈注〉このページは、「新ハイキング(新ハイキング社発行)」1999年9月号 に掲載されたそぶかわさんの紀行文を Web用に編集したものです。 |