CDに聴く名曲の演奏風景:ブルックナーの交響曲第6番


ヴァント/北ドイツ放送交響楽団
RCA 1995年ライヴ BVCC-733

ギュンター・ヴァントと北ドイツ放送響による同曲の2度目のRCA録音。

第1楽章冒頭の第1主題から弱奏部/強奏部の別に関わらず特定の声部の突出的な乖離を入念に防ぎながら、 常に相互の声部との絡みで音楽を聴かせようという、ヴァントの演奏意図が、88年録音の旧盤に聴くそれよりも いっそう明確に打ち出されている感じがする。第2主題部もひきしまった速めのテンポで通されるにもかかわらず、 フレーズの流れに強い表出力が付帯している。これは旋律上の拍節感がかなり緻密に刻み込まれているためだ。

第3主題に入る直前(4:20)の和声的な断続を抑制したスムーズな楽節移行の確保といい、 同主題部第117小節からの木管3連符に対するポルタート特性の明解な付与といい、 いずれかなり高度な指揮的技量の問われる局面を、この速めのテンポで当たり前のようにこなしている。 提示部終盤から展開部序盤にかけて多声的に展開される細やかな3連符や6連符音形の伝播シーンに聴かれる、 しなやかな漸緩漸弱に基づいた演奏展開は夢想的であり、聴いていて陶酔させられる。 さらに展開部後半から再現部に掛けての複数の音楽的山場を含む楽節においては、音楽の緊張と弛緩の交代の織り成す 音楽の呼吸感が素晴らしく、あたかも楽曲自体が生命を得て自律的に駆動するような高みにまで 表現が昇華されていて感嘆させられる。

第2楽章も引き続き速めのテンポ基調からセンシティブな楽想上の機微が随所に得難い趣きを発している。 それは例えば第2テーマ後半でラルゴに入る手前第44小節ラスト(4:06)でのリタルダンドの沈深、 第3テーマ部(5:03)を貫く啓示的なppのティンパニ付点同続リズムの意義深さなど、枚挙に暇が無いほど。 わけても展開部の練習番号E(6:30)からの音楽シーンが素晴らしい。 ここは木管2声による半音階下降、およびヴィオラの夢のような細分音形に挟まれて第1ホルンが楽章冒頭メイン・テーマを出す極めてファンタジックな書式となっていて、このあたりのバランスの均衡を失すると 楽想の透徹的なリリシズムが大きく減滅してしまう、デリケートな運用が要求される場面であり、 このヴァント盤における表現はまさにその理想の極致とも思われる。この無限の詩情味はちょっとかけがえがない。

第3楽章も強固な構成感に支配された隙の無い運用だが、とりわけトリオの最初に3本のホルンがユニゾンする マルカートのフォルテ句を、屹立的に突出させない節制の効いた提示が印象深い。これが布石となり、直後に 木管3声がメゾ・フォルテで出す主題(すなわち第5交響曲第1楽章の第1主題)の配置的意義がグッとクローズアップ されている。終楽章も、その機を見るに敏な内声交代や、しなやかな音楽的起伏力といったヴァントならではの 表現の深みがコーダまで充溢している。

チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
EMIクラシックス 1991年録音(ライヴ) 5566942

この演奏におけるチェリビダッケの演奏アプローチは、まるで作品の神秘的な胸奥を披瀝するかのようだ。 総演奏タイムは65分弱。この曲の平均所要タイムからするとかなり長めだが、 これは主に第2楽章の超スロー・ペースに起因している。

最初の第1楽章は17分ジャストと、それほど遅いペースではないが、書式上の細かいニュアンスに対する 念の入った配慮は楽章全編に対し完璧に行き届いていて、主要主題に対する主対声部の拮抗したバランスが 音楽に多角的な彩りを添えている。とりわけ展開部中盤(7:29)から第1主題の転回形がフガート的に扱われる場面に 聴かれる、弦3声の3連符波形音まで含めた多声的な音楽的広がりの描き方が素晴らしい。 それでいて音楽が窮屈に縮こまらない演奏スケールもさすがと思わされる。特にコーダで最初のフォルテッシモと なる(16:00)での金管群の発する壮絶的な強和音など、大いなる高揚感を誘っている。

しかし全曲の白眉が第2楽章であることは疑いようもなく、その22分にも到るたっぷりとしたタイム・スケールの中から 浮沈するハーモニクスの機微や音色の妙感の美しさは喩え様も無いほどだ。 あらゆる音符に意義を感じさせるようなチェリビダッケの音楽的な刻印が、超次元の演奏的深みに帰着された 希有の超演というべきか。第1主題部第10小節(1:10)でのオーボエによるシンコペーションの和音の意義深い響き、 第2主題部後半部ラルゴから(5:20)の深い内省的足取り、第3主題部(6:31)からの ティンパニの細分音まで瞑想するかのような思索的静寂、展開部後半部の9度下降に よるフォルテッシモ・ユニゾン進行での、大自然の絶景さながらの音響展開等々、聴き所は無数に存在する。

第3楽章は意外にオーソドックスなテンポ感ながら、一つ一つの構成音符をデリケートに 処理しつつ、弱音から強音までハーモニーが常に立体的奥行きをもって鳴り響いている。 その音楽の格調高さは卓抜的だ。続く終楽章は演奏タイム15分をかけての余裕をもったテンポを基調とした、 音楽的な懐の深さを感じさせるような内容で、どんなにフォルテに上昇する楽節においても それを支える高中弦部のトレモロ音ないし低弦部のピチカート・リズムに到るまでのアンサンブルの 土台が、常にデュナーミクに比例した克明な力感を維持するため、そのアンサンブルの立体無比な 構築感により、聴いていて交響空間の宇宙的な広がりをもイメージさせられるほどだ。

ヴァント/北ドイツ放送交響楽団
RCA 1988年録音(ライヴ) 60061-2-RC

ギュンター・ヴァントと北ドイツ放送響による同曲の最初のRCA録音。

名演であることは疑いないも、後の95年に再録音された演奏から受ける感銘には今一歩届かない感じがする。 あの95年盤での、音楽の自律的な生命感すら意識させるまでの 練れ切った音楽の呼吸の境地はやはり突き抜けたものであることが改めて実感される。

そうであるとしても、本演奏における厳しく磨き込まれた造型バランスの極みは、 おそらく同曲異演盤の中でもトップ・レベルの説得力を感じさせる。 細かい特徴感や聴き所等に関しては前掲した95年盤に詳述した内容と重複する部分が多いため その詳細は省くとして、本演奏の優れた特質は、全楽章に渡って楽曲の書式をスコアに則って 丁寧に音価した、極めて理詰めのアプローチに依拠しながら、およそ神経質な匂いを感じさせない、自然体的 ともいうべきアンサンブル運用の継続という点にあるように思う。

第1楽章冒頭から一貫的に引締まった速めのテンポによる、いわゆる硬派な進行感を主体としながら、 総じて強めのアクセントによる峻厳な造型感の表出が卓抜している。とりわけ展開部後半以降に 顕著なアンサンブルの対位的な階層構造のパースペクティブに対する徹底統制は特筆に価する水準だ。 第2楽章も演奏タイム15分台後半という、厳格に切り詰められ贅肉感が削ぎ落とされた 造型展開をベースとしているのに、主題楽節ごとに緻密に切り分けられた性格表現の妙感が豊かなことに 驚かされる。淡々とした絶対テンポと裏腹に繊細な詩情に満ちた、その淡い幻想味が何とも言えない。

第3楽章はキリッとしたリズムを基本とした、軽薄に流れないシリアスな楷書風のスケルツォ進行であり、 同時に強奏シーンにおける金管のファンファーレのシャープな圭角感が良くものをいって音楽のスケール感も 素晴らしい。第4楽章においても提示部・展開部といった別を問わず、 とかくフォルテッシモの音塊に埋没し勝ちな管楽器群の配置フレーズに対する厳格な立体性が抜群で、 一貫して推進的な造形展開に立脚しながら、アンサンブル構造として一点の曇りも無いような 組織的な音楽の組み上げにより、並々ならない音楽的緊張度が表出されている。

朝比奈隆/大阪フィルハーモニー交響楽団
キャニオンクラシックス 1994年録音 PCCL-00474

朝比奈指揮大阪フィルの残した一連のブルックナーはいずれも素晴らしく、このブル6においても、 全編に渡ってアンサンブル各奏者の指揮者に対しての、献身的なまでのひたむきさが際立っている。 良い意味で、あまりプロ・オケらしくない、真にこもった表出力に独特の感銘を与えられる演奏だ。

第1楽章冒頭で高弦2声のユニゾンが刻むブルックナー・リズムこそ、精密感に乏しいばらついた 歩調で、ちょっと危なっかしい印象ではあるものの、その先における最初のフォルテッシモから アンサンブル密度の高い、音塊的質量感が際立った度合いを呈して迫力満点だ。 同シーンを皮切りに、総じてff以上の楽節におけるアンサンブルの没入的な演奏スタンスから 繰り出される渾身の強奏が極めて鮮烈。いまひとつ特徴的な点は弱奏強奏にかかわりなく無骨なほどに 強調される低音声部のソノリティの豊かさで、例えば提示部終盤となる第141小節からの管低音群に よるpppの持続和音とか、展開部中盤の練習番号Lからのシーンで分割されたコンバスがppで上下運動の リズムを強調するあたりとか、いずれも全ハーモニー中に占める低音ベースの存在感の高さに驚かされる。 バスの効きが一貫的に良いので音楽の流れにコンスタントに厚みが乗り、それが強奏時に増幅され 素晴らしい高揚力を供出するという好循環。加えて、クライマックスにおいては 巨匠・朝比奈隆のある種のカリスマに触発されたかのようなアンサンブルの発する根元的な鳴動力が 別格ともいうべき音響的スケールを発していて感嘆させられる。

第2楽章も総じてピアニッシモの強調を避けつつ、逆に一貫的に肉厚感の豊かなハーモニー・バランスの 強調された、味の濃い演奏だ。ただ、細密面にはやや難があるのも事実で、例えば再現部第103小節からの フォルテッシモなど、弦の管に対するバランスが弱過ぎて細分音の機微が伝わりにくかったりするなど、 場面によってはその響きの肉厚の豊かさが仇となり、ハーモニクスをやや大味なものとしている感はある。 しかしそうだとしても、その響きのむせ返るような味の濃さには参ってしまうのも事実で、音色自体の朴訥さ、 虚飾臭の無さといい、聴いていてやはりいい演奏だなと率直に思わされる。

第3楽章は冒頭からチェロ以下の低弦が刻むホ音の持続リズムに対する、ピアニッシモとも思えぬ重量的な歩調感が いかにも個性的。楽章全体を通して局部的テンポ変動の極端に抑制された、まるで頑固一徹とでもいうような泰然とした 進行感が際立ち、独特の格調を感じさせる。 終楽章はここまでの各楽章における演奏表情の集大成という感じだ。すなわち1楽章でのff以上の楽節における 音塊的質量感 ないしpp以下の楽節に対する低声ベースのソノリティの豊かさ、2楽章での朴訥たる音彩的情緒や3楽章での堅固な 泰然的進行感。これらを有機的にミックスさせた包括的表現というべきだろうか。ゆえに総合的な迫力において 全楽章中一頭地を抜く充実感を湛えた内容と感じられる。

サヴァリッシュ/バイエルン国立管弦楽団
オルフェオ 1981年録音 C024321A

このサヴァリッシュとバイエルン・シュターツカペレとの顔合わせによるブルックナーは、 ある意味において、ヴァント/北ドイツ響のそれよりもドイツ的解釈に根ざした演奏と いえるように思う。

全編を通してアンサンブルの土台としての頑強な低声部と、音楽を前に駆動する中声部、そしてそれら 低中音域の豊かな音響ベース上に音楽の旋律性を展開する高声部といったように、 きっちり役割分担されたアンサンブルの機能的切り分けに基づく、ドイツ風の構築感が 徹底されたような表現となっている点が特色と感じられる。

第1楽章ではその演奏タイムが14分前半で、同楽章としては明らかに短時間的だ。 にもかかわらず全体としてその絶対テンポの速さと裏腹に演奏進行上の造型安定の 揺るぎなさが確立されている。それは上に書いたように、 アンサンブル内部の相互的な機能関係の組み上げが高度に統制されているからこその ステイタビリティであると考えられる。その音楽の毅然とした推進感が、 ドイツ本場的な演奏の格調高さに直結されている。

また局部的なハーモニーの上下関係が高水準に描出されている点も素晴らしく、 例えば再現部中盤の練習番号R(10:27)からの場面など、その書式構造が示す低弦→高弦→金管高声部の焦点移動の 様相が実にキレイに表出されていて、クライマックスとしての高揚感が卓抜している。

第2楽章は冒頭のオーボエの主題メロディから 概ねスラー後半部を心持ちテヌートさせたような旋律情緒感の高い歌い回しと なっている。しかし全体として各構成メロディに対するスラー単位での 切り分けはきっちりしているので、音楽のフォルム感が常に端正に保たれている。 全体的な造型統制と、内部的な旋律情緒との、両面が良く練られた演奏というべきだろうか。 アンサンブル全体に占める中低音弦のソノリティの豊かさも相変わらず健在だが、 さらに各種管楽器パートも総じて卓抜した表現力で演奏に華を添えており、 中でも再現部中盤の山場で全パートのフォルテッシモ強奏の中に神々しく浮かび上がる 第104小節(10:07)からの第3トランペットのフレーズの美しさは特筆的だ。

第3楽章もスケルツォ強奏部でのティンパニのトレモロ効果まで含めた アンサンブルの低声部階層の堅実な確保が良くものを言って、中高声部の フレージングの屈強感の高いドイツ風スケルツォとなっている。 最後の第4楽章もここまで積み上げてきた解釈面での徹底性をきっちり持続させつつ、 オーケストラの演奏力の充実ぶりも含めて、楽曲本来の書式に根ざす音楽の持ち味を ストレートに前面展開したような、正攻法的名演となっていて感動の度合いが高い。

ヨッフム/バイエルン放送交響楽団
グラモフォン 1966年録音 429079-2

往年のバイエルン放送響の管弦楽的充実を如実に伝える記念碑的な名演。 名匠ヨッフムの棒の形成するドラマティックな音楽的起伏力に富む演奏のアウトラインに 対し、オーケストラの気迫漲るアンサンブルが高感度に応答した充実的内容のブルックナーだと 思う。

第1楽章冒頭から低弦・金管低音パート等低声部の腰の据わった合奏基盤をベースに、 弦や木管、トランペット等金管高音域パートの発する肉厚感の高いハーモニーの濃縮的な 絡み合いが、すこぶる情動に富む演奏シーンを連続的に構築せしめていて惹き込まれる。 そのドラマティックに流動する楽想の変転がくっきりと、巨視的なレベルで描き出されていて、 音楽の迫力感が相当な水準に達している。

さらに、展開部から再現部までの一連の動的シーンを抜けた、練習番号Wからの コーダにおける堅牢なスロー・テンポの格調高さもかなり印象深い。 ここに到るまでの演奏上のホットな脈動感とのコントラストが大きくものを言っているからで、 その感銘はこの楽章の白眉とも思われるほど。

第2楽章も大局的に味の濃い木管と、力動的な金管のモチーフを、重厚な弦が支える ゲルマン・スタイルを基調に、速めの求心的なテンポがハーモニー全体として の響きの濃密感を助長する。さらに楽章内におけるアンサンブル弱音領域に対する、 無骨なまでに繊細ぶらない克己的な隈取りもすこぶる効果的な作用をもたらしているようだ。 例えば第3テーマ提示直前の第50小節からクラリネットとファゴットの2声ユニゾンがホ音を 皮切りにpからppへディミヌエンドするシーンなど、そのデュナーミクのアナログ的な変遷が メロディの沈潜の詩情をグッと引き立てているし、また再現部のクライマックスへ向けた クレッシェンド部を支えるヴィオラ以下トレモロの峻厳が醸し出す音楽の威容も 最弱音レベルから比肩無いほどに際立っている。

第3楽章はいくぶん繊細感に欠けるが燃焼度の高いスケルツォで、音楽の豪壮感が抜群だ。 続く第4楽章ではここに到る諸楽章のそれよりひとまわり気迫の高いオーケストラ・ドライブによる かなりホットな温度感を放つ熱演となっていて、その要所要所においてパワフルかつスリリングな 切迫的加速を伴う動的運用もさることながら、そのわりに総じて造型的な面での危うさの希薄な、 構造把握の的確ぶりが見事だ。言わば静なる音楽的格調感と動なる音楽的内燃力とが絶妙に拮抗した、 同期的なバランスにおいてブルックナー演奏としてのひとつの醍醐味が絶妙に供出された名演というべきか。

ブロムシュテット/サンフランシスコ交響楽団
デッカ 1990年録音 POCL1314

ここでのブロムシュテットの指揮は職人気質をも感じさせる堅実かつ入念な造型運用をベースとするもので、 その上にサンフランシスコ響によるアンサンブルのみずみずしい明彩性が良く発揮されている点が魅力だ。 難点はブルックナーとしては多少軽量級的な印象を否めない点だが、特にブルックナーの第3以降の 一連のシンフォニーの中でも重厚感に対する要求性が比較的高くなく、逆にフットワークの要求される シーンも多いこの第6においては、むしろアドヴァンテージとして作用しているような局面も多い。

第1楽章は概ねオーソドックスと言える安定したテンポ感を基盤としつつ、アメリカのオーケストラによく聞かれる ケバケバしさと無縁な洗練された美しい音色が表出されている点が好感的だ。ブロムシュテットによる表情形成も 見事で、例えば第1楽章の第1主題がff呈示されるシーンでのトランペット→ホルンとリレーされる3連符内声に対する 精彩な描出感に傾聴させられる。また同第3主題部においてテーマを出す管群声部のユニゾン・シーンにおいても、 例えばカラヤンの演奏のようにトランペット高声部を突出させた局所効果狙いを慎み、高声〜低声パートが相互調和的に 良くブレンドされたユニゾン構造が形成されている点も特筆される。なぜなら、同シーンにおける多声ユニゾンの色彩的な 妙感が高感度に活かされている点がすこぶる美質的に感じられるからだ。

展開部においても例えば展開部中盤第183小節からの金管単体パート応答シーンのような細やかな楽節から、 展開部後半でのフル・オーケストラによる強奏シーンのような活性的楽節に到るまでの、多彩な局面に対して、 質の高いハーモニーの水彩画的明彩感が提供されていて音画的な楽しさを実直的に感じさせる。

第2楽章は大局的に緩やかながらも情緒的に落ちない理性感の高いテンポ・ペースを基調に、 弦・管を問わず極めて清潔感の高いアンサンブルの美彩が顕著。 第3楽章は響きのマス的重みをそれほど希求せず、スケルツォとしての リズム的妙感の表出を第一優先的に押し出したような趣きで、一定のスマートな魅力感が確保されている。 第4楽章も第1楽章同様に造型運用的に正攻法のアプローチから浮かび上がってくる内部的な彩色的機微の 呈する美観において独特の音楽的潤いを感じさせる美演だ。

シャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
デッカ 1997年録音 458189-2

実に豊かな明彩的色合いのブルックナーだ。前掲のブロムシュテット盤での水彩画風色合いに 対し、こちらは油絵風ともいうような管弦楽の新鮮なバランスが独特の音楽的美感を放っている。 加えてシャイーの指揮による、自身の音楽的感性に任せたような意表を突いた演奏効果も良くものを言って ただキレイなだけの外面的な表現に留まっていない。

第1楽章最初の主題楽節からおよそ性急と無縁的なゆとりのあるテンポ感を基調に、かなり丁寧に歩を進めていく といった様相だが、そのアンサンブル構造においては一貫的に管音群パートが弦・打パートと同等以上の 音色的存在感を保持している点がユニークなところだ。結果的に複数のトッティ内部における一部の管声部のみの 独立旋律、ないし管楽器ソロ・フレーズに対するアンサンブル全体からの鮮やかな浮遊離脱の度合いが際立ったものと なっている。これがコンセルトヘボウ管の各種管パート奏者の演奏技量の高さと相俟って、かなりファンタジックな 音響テイストが聴かれる。とりわけ提示部終盤から展開部序盤までのシーンにおける夢想的な音楽の色調感など絶品だ。

さらに強弱緩急面においても総じて慣習的なブルックナー演奏の運用とは一味違う、それでいて 楽曲の局所的な書式の持ち味を効果的に増幅するような思い切った表現が取られていて印象深い。 例えば再現部突入直前の第205〜209小節における管弦楽運用がそうであり、 第205小節(9:28)冒頭の瞬間的ディミヌエンド、および第209小節直前(9:36)での 瞬間的リタルダンドという、いずれもスコアに無い独特の起伏付与によって、再現部に入る 第209小節アタマでイ長調の主和音が豪快に鳴り響く地点を明確に頂点と見据えての、ff→fffの 強度推移の立体感が効果的に強調されている(同様の 運用はコーダでのff→fff楽節においても用いられていて、表現として一貫性がある)。

第2楽章も楽章内の細やかな装飾フレーズに到るまでのアンサンブルのデリケートな音響展開 が、さりげない楽調の機微や移ろいを高感度に抽出していて独特の趣きに満ちている。 なかでも再現部となる練習番号Gからのヴィオラ以下弦低声部トレモロのクレッシェンドに 聴かれる細分構成音符に到るまでの生々しい浮き出しぶりが素晴らしい。 第3楽章は主部楽節における弦部のスタカート音形に対する毅然とした刻み込みと、 管部の和声移動に対するしなやかにひらめく繊細感との対照が強い印象を感じさせる。

第4楽章も第1楽章での表現性を継承した進め方に終始するが、ここでは特に その重低音の堅牢を基盤とするいわゆるゲルマン型階層感からかなり遠いハーモニーの アーキテクチャゆえに、書式的にフォルテッシモ以上の強度で弦パートの音符が密集するような場面においての、 純粋な意味でのパワー・インパクトにやや弱みが感じられなくもない。しかし、逆にどんなに 管弦楽が大きく起伏しても響きの総体が澄んだ湖面のような光彩的透明感を絶やさない点は 本演における大きな美質となっているように思われる。

スクロヴァチェフスキー/ザールブリュッケン放送交響楽団
アルテ・ノヴァ 1997年録音 BVCE-9710

ミスターSのブルックナーにおける演奏アプローチでは、おおむねアンサンブル総体のマッシブな音塊的量感が、 敢えて強調されない。そのため、楽曲の内部構造がまるでレントゲンを見るように描出される。 このスタイルの最大の難点は演奏スケールが総じて振るわない点で、例えばヴァント/NDRの演奏のように オーケストラの根本的鳴動力の抽出で勝負する正攻法のスタイルと違って、作品の姿を透過的に映し出す、という 以上の感銘を与えられることがあまりない。その意味における例外のひとつが本演奏で、 職人指揮者スクロヴァチェフスキーの解釈面での創意工夫が大きくものを言っているため、 演奏スケールが小さく縮こまらず、音楽のダイナミズムの豊かさも高水準に表出されている点が素晴らしい。

第1楽章冒頭のピアニッシモ領域からデリケートに浮上するブルックナー・リズムの緻密ぶりに まず惹き付けられるが、主楽節以降も概してキリッとした音楽輪郭と同時に、アンサンブル内声構造に対する 豊かな描き出しの度合いが高く、少なくともハーモニーのタテの論理構造に関してはブルックナーのスコアを 最も明晰に音化したようなレベルで、圧倒的な情報量を誇っている。提示部や展開部の複数のff領域における アンサンブルの強奏の、まるで混濁しない晴朗無比な透明感、あるいは再現部第1主題再帰場面後半第219小節 から(9:00)のトランペット⇔ホルン間におけるくっきりとしたマルカート交代の強調に基づく 鮮やかな対話の妙感など、他のディスクと聞き比べてみれば“一聴瞭然”とも言える特質性が示されている。

しかし、こういった楽曲の論理構造重視型アプローチにおいては往々にして演奏全体の活力が低回し勝ちな ものだ。そのウィーク・ポイントを鮮やかに補完するようなスクロヴァチェフスキーの職人芸的な運用が 随所に援用されていてトータルの演奏パワーが一貫的に落ちてこない。例えば コーダでの練習番号Zの直前(14:57)におけるppp→fffの局所的強弱変位を増幅的に強調する 中低弦トレモロ音の瞬発的クレッシェンドがそうで(スコアにはこのクレッシェンド運用の指示は無く、 おそらくスクロヴァチェフスキー独自のアイディアであると思われる)、コーダ最終局面に対する演奏上の スケール・インパクトが効果的に嵩上げされたような印象を与えられる。

第2楽章もやはり総じて晴朗無比なハーモニー構成の堅持を第一義的に進めるような運用に徹しているがゆえに アンサンブル内声旋律の中の木管の細かいトリル音ひとつさえ手に取るように動きが伝達され、 さらにアーティキュレーションも場面に応じてかなり多彩で愉悦的な情趣に富み、それが全体の響きの 淡麗的なまとまりと相俟って、聴いていてなんとも懐かしいような音楽のセンチメンタリズムが横溢する。 殊に再現部からの強奏シーンにおける音楽の晴朗感は、ちょっと比類が無い。

第3楽章では強弱面でのデュナーミク・レンジのひろがりこそ限定的ながら、 中低弦が刻むスケルツォ・リズム部のpp→ff浮上域における拍節感がかなり 鮮明に描き込まれているため感覚的なスケール・インパクトに富み、さらに 高弦と管楽器群が奏でる甘さを排したような厳格なフレージングが 演奏を緊縮的に引き締めて間然するところが無い。終楽章においても1楽章同様、 およそ情に流れず、音楽のロジカルな構造性の浮き出しに重心を置いたようなタテのバランスを 維持しながら、同時に熱っぽい楽想推移の流れを凛然と描き出すヨコの流れ(第3主題部を導出する 漸強部第111小節あたり(3:53)での木管フレーズに対するルバート強調など実にスリリングだ) を表現するという、かなり手の込んだアプローチが独特のインパクトを刻み込んていて魅了させられる。

ヨッフム/ドレスデン・シュターツカペレ
EMIクラシックス 1978年録音 5726612

演奏全体を通して、ヨッフムとバイエルン響との旧録音に聴かれた、熱情的なまでの表情の強さこそ後退した感が あるとしても、 代わりに音楽に堂々たる貫禄が付帯し、加えてブルックナー演奏としての こなれた運用感も堂に入った円熟的演奏と感じる。

第1楽章は一貫的にアンサンブルの音塊的豪壮感の良く発揮された、演奏スケールの高い内容ではあるものの、 全体を通してあのヨッフム独特の、楽節移行の局面を起点とする切迫的な緩急起伏の 運用がかなり抑制されている点が印象的で、旧録音と比較すると、音楽の劇性よりもむしろ フォルム感を大事にした運用といった印象を受ける。そのぶん突き抜けた感触が旧録音より弱いのも 事実で、例えば最強奏の頂点など重要な所で金管の走句の鳴りがいまひとつ悪かったり、 楽章トータル的としてインパクトがいまひとつ振り切らない。そうだとしても、聴いていて音楽自体が 旧録音とは違う角度から、よく語りかけてくる感じがする。この6番の第1楽章は一連のブルックナーのシンフォニーの 先端楽章としては書式的に最も動的というか、ドラマティックな楽想を初めから持っているため、さらに 解釈面で殊更ドラマティックに盛り上げる必要性はそれほど高くない。このヨッフムの新盤では、 旧盤よりも解釈面での劇性を抑制し、そのぶんアンサンブルの堅実かつ確実な組上げに力点が注がれているため、 結果的に旧盤とは一味違う音楽の深みが表出されているように思う。

第2楽章も冒頭オーボエ動機の明彩を抑えた淡い色合いに端を発し、 楽章内を通し総じてバイエルン響との旧盤よりひとまわり内省的な 音楽の色調をベースに、主旋律のゆるやかな隈取りの推移をじっくりと 丹念に描き出したような印象があり、独特の滋味な味わいを感じさせる。 第3楽章も歩調感としては旧盤同様、いかにも逞しい男性的足取りで一貫されるが、 ここでは特にスケルツォ部がフォルテッシモに浮上するシーンでのアンサンブルの パッショネイトなまでの爆発力が特筆的で、このあたりバイエルン響との 旧盤で支配的ともいうべきあの熱い温度感の名残のような趣きが感じられる。

最後の第4楽章は前3楽章の内容と比べてひとまわり旋律的緩急の動きの切迫感を強調したような ドラマティックな運用性が取られている。いかにもヨッフムのブルックナーらしい劇的緊張感の 味付けが顕著に発効された演奏進行だ。また第2主題部の第80小節などの4分休符を全休符的に 強調するブルックナー・パウゼの呼吸感なども含め、このフィナーレが本演を通して最も ヨッフム本来の持ち味が良く活きた白眉的内容となっているように思う。

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