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時宗ゆかりの寺
鎌倉に「古都フォーラム鎌倉」という任意団体がある。
郷土史家を中心として、鎌倉に因む歴史を勉強し、歴史探訪の会
を催し、また勉強会を開く団体である。
この会が、3月に遊行寺を、6月に無量光寺を探訪する会を
企画した。
ともに、一遍上人を開祖とする時宗ゆかりの寺である。
3月の遊行寺はあいにくの雨だったが、Y・S さんの案内で
遊行寺の宝仏殿、本堂などを拝観した。
(遊行寺の桜)
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藤沢山 無量光院 清浄光寺(とうたくさんむりょうこういん
しょうじょうこうじ)が正式の寺号で遊行寺は通称である。
遊行寺は、正中2年(1325)、遊行4代呑海(どんかい)上人
が、実兄の俣野五郎景平の援助によって、極楽寺跡に清浄光院を開いたのが
始まりで、北朝の後光厳天皇から「清浄光寺」の勅額を受け、現寺号
に改めたという。
宗祖一遍上人は、賦算(ふさん=お札を配ること)と踊り念仏
で、終生諸国を歩き(遊行)、常住の寺を持つことを拒んだが、
後継者にとって、寺が無いことは、宗派の統括に不便であり、
学習のための道場が必要になり、また上人の老後の安定のためにも
寺が必要であった。
歴代の上人は、宗祖に倣って遊行を続け、本山も遊行寺の通り名
で呼ばれるようになったという。
遊行寺はJR東海道線・藤沢駅から北口下車、10分足らずである。
一方、無量光寺は、茅ヶ崎〜橋本間を結ぶJR相模線の
原当麻(はらたいま)駅から1キロほどのところにある。
当麻駅/無量光寺周辺図(I・S さん作図)
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6月の末、梅雨の合間に歴史探訪が催された。
案内は I・S さん。
雨は、原当麻に着く頃には上がり、絶好の散策日和。
約30人の人(非会員も参加OK)が集まり、無量光寺に向かった。
無量光寺まで10分ほど。
(無量光寺門前での説明)
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無量光寺の縁起は遊行寺より古い。
弘長元年(1261)、一遍上人(23歳)は諸国遊行の途次、
依知の里の草庵(現在の瑠璃光寺)に一夜の宿をとり、夜もすがら
一心に念仏を唱えていると、真夜中、金毛の亀に乗った
妙見菩薩が姿を現され、お告げを告げられた。
上人はこの示現に感激し、翌朝、相模川の対岸の亀型
をした丘に、妙見菩薩の小さな祠を見つけた。
上人はこれを金光院と名づけ、錫を留めて修行に励まれた。
一遍上人は、父の悲報を受け、いったん伊予に旅立ったが、
文永7年(1270)32歳の時、また弘安4年(1281)43歳の
時、奥州遊行の途次、当山に留錫され修行をなされている。
弘安5年(1282)、鎌倉に向け遊行の旅に立たれる際、名残を
惜しむ信徒に請われ、自らの姿を水鏡に映し筆を執って絵姿を
描き自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせ等身大の木造を
完成させた。
これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置されている
という。
(一遍上人像)
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堂宇の造営は、二世、他阿真教(たあしんきょう)が、一遍の
遺言によって諸国を遊行した後、嘉元元年(1303)2月、
当麻山 金光院 無量光寺として建立したのが始まりという。
以後、多くの諸塔、尼寮などが造られ、発展したが、四世呑海
が住職を継げず、藤沢に遊行寺を建てたことから、当麻系と
清浄光系が対立し、当麻系は衰退していったといわれる。
相模川を渡り、日蓮宗の妙傳寺を拝観した後、瑠璃光寺に
向かう。
瑠璃光寺は、一遍上人がお告げを受けたとされる、無量光寺
発祥の地。 本堂が真新しい。
歴史探訪「時宗ゆかりの地」はここで、解散となった。
帰路は、JR相模線原当麻駅に戻るか、神奈中バスで厚木に出るか
迷うところ。
結局全員がバス停(妙傳寺前)から厚木に向かった。
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