テキスト一覧へ戻る



龍のロケット



話はかなり前にさかのぼります。

あるお医者さんのサイトで
「とある精神病患者が言うには
 自分は日本軍のロケット戦闘機の秘密基地の建設に携わったことがある
 その秘密基地とは京都の比叡山にあった」
と書かれてあって、もちろん誇大妄想の戯言かもしれないけれども、
ソ連機の迎撃にも好都合だし京都比叡山にロケット戦闘機の基地があっても不思議ではない。
とも書かれていました。
確かココだと思ったのですが、これは結構印象に残って居ました。

ところが、異端の空 
渡辺 洋二 著 文春文庫を読んだ時、
この話は単なる妄想で済ませられる話では無い!と思いました。
なぜなら、そこにはロケット迎撃機「秋水」の実験部隊の意外な真実が書かれてあったからです。

ロケット迎撃機「秋水」はドイツが開発した Me163 コメートの日本アレンジ版の機体です。
アレンジと言ったのには訳がありまして、完全コピーではなかったのです。
というのも、ドイツから様々な図面を運んでいた潜水艦が撃沈されて、
日本には具体的な寸法の無い概念図的な図面や、
燃料の基礎的な解説部分しか届かなかったからです。
これらを元に三菱と陸海軍が共同で作り上げたのが、ロケット迎撃機「秋水」です。
ちなみに「秋水」とは「秋の水のように澄み渡った刃」との事から名付けられたそうです。

この頃の日本には B-29 が出現していましたが、
あまりに高高度で飛来する B-29 に従来の機体では全く太刀打ちできない状況でした。
そんな中で、従来は数十分かけて上がっていた高度1万メートルまで、わずか 3.5 分で駆け上り、
最大時速 900km/h を発揮すると言うロケット機には嫌がおうにも期待が寄せられました。
しかし、前述のようにただでさえ設計図が少なく、
また、ドイツでも問題が多く発生したとの事ですので、
機体が元来持っていた不良等により、その完成までには様々な調整が予想されました。
そのため、実験部隊が早々に設立されました。
時に、昭和 20 年 2 月 17 日。その名を第三一二航空隊と言いました。
司令官は柴田武雄大佐。飛行長に山下政雄少佐。整備主任に松嶌繁久大尉。
飛行科分隊長に犬塚豊彦大尉。整備科分隊長に廣瀬大尉
この時、既に米第 58 任務部隊の艦載機による関東一円の銃爆撃が始まっていました。
そんな中、練習機のエンジンを切り、無動力によるソアリングから訓練が始められました。
その後、実物に似せエンジンのない滑空機等も作成され、
その間に 80% と言う危険な濃度の過酸化水素水を用いるエンジンの実験等が進められ、
非常に手間取りながらも、6月末に第一号機が完成しました。

そして、この後普通ならば飛行実験をし、問題点を洗い出し、と続くのですが、
ここで少し脱線する事にしましょう。
柴田司令率いる三一二空には、有る一種独特の雰囲気があったと言います。
それは実験部隊のベテランパイロットが醸し出すゆったりした雰囲気もあったでしょう。
救国のロケット機を世に送り出すと言う決然たる雰囲気もあったでしょう。
しかし、この三一二空にはもう一つ他の部隊にはない空気がありました。
それは「お光教」です。
「お光教」とは東京 蒲田に本部のある新興宗教の名です。
飛行科分隊長の犬塚大尉が彼と彼の家族が信仰するこの教団へ、
飛行中に彼と同じ神秘的な体験をした柴田司令を連れて言った事が発端のようです。
柴田司令はこの宗教をいたく信じ込み、
司令が基地に居ないときには、軍令部か海軍省かでなければ蒲田に居ると言われた程でした。
彼は彼の思いやりからだと思いますが、
部下を蒲田に連れて行き、入信のきっかけを用意したりもしました。
ただ、それ以上の勧誘や強制は無かったと伝えられている事は付記しておきましょう。
しかし、この宗教から位の高い物に与えられる「〜龍」の呼び名、龍名、
いわゆるホーリーネームで部下を呼んだり、
部内での会話も、戦局の行方やロケット機の運用方法
それ以外の話題は全てこの宗教に関する事となり、一種独特の雰囲気があったそうです。
他隊の司令官に「まるで神様部隊だ」と呼ばれた事からも、このことが察せられましょう。
この事が、個人個人の信仰の範疇内に止まっている限り、
この事は取るに足らない事であったかも知れません。

話を元に戻します。
一号機が完成し、試験飛行を行う運びとなりました。
通常でも、このような新機軸満載の飛行機ならなおさら、試験飛行は重要となります。
また、試験飛行は飛ぶ事にも意味がありますが、
それ以上に飛んだ後に各種データを検証する事に意味がありました。
それによって、2号機3号機、ゆくゆくは量産機の性能が左右されるからです。
ですから、試験飛行では無事に飛んで、そして無事に帰ってくることが求められます。
戦局が逼迫し、あてがわれる資材も少なくなる中では、それは特に重要な事でした。
そのためには出来うる限りの好条件で飛行試験をする必要が有りました。
操縦士の技量、機体やエンジンの状況、天候、そして飛行場の状態等がそれです。
普通、試験飛行をする時は広く長い滑走路を持ち、周辺には建造物や山などが無く、
また緊急着陸が出来る場所が求められました。
当時、「秋水」の開発・試験は海軍の飛行機開発のメッカ、横須賀の追浜で行われていました。
しかし追浜は回りに建物が建ち、
何より滑走路・誘導路等が試験飛行に十分な程広いとは言えない状況でした。
このようなことより、普通に考えれば十分な広さがある厚木飛行場で
試験飛行をするのが妥当と思えました。
しかし、ここで柴田司令は決断を下します。
追浜で試験飛行をやる、と。
その理由として、まず機体の状況が挙げられました。
当時、開発されたロケットエンジンの特呂2号エンジンは非常に不安定でした。
昼動いた物が夜には動かないという事が当たり前でした。
このエンジンが、横須賀から厚木までの陸路輸送に耐えられるとは考えづらい。
また、厚木基地の周辺には高圧線が走っており危険である事。
追浜は海がすぐ近く不時着水ができる事、が挙げられました。
しかし、恐らく彼の中で一番重きを置いた理由は「お光教」のお告げでしょう。
柴田司令がお告げとして、
 「追浜がいい」
 「狭いのなら飛行機を軽くせよ」
 「秋水」の翼には光の神が宿ってるから大丈夫だ
と言われたと話していた事を当時の関係者が証言しています。

そして昭和 20 年7月7日午後4時 45 分、犬塚大尉が乗り込んだ「秋水」一号機は
もうもうたる白煙を噴きながら、空へと飛び立ちました。
周りで見守る人の間からは歓声と拍手が沸き起こります。
そしてその後、急角度で上昇した「秋水」一号機が
高度 350〜400m(一説には 500 とも)に達したとき、
異常音と共に黒煙を吐きエンジンが停止。
推力を失った機体は搭載している残燃料を放出しながら、
機首を巡らせ飛行場に戻ってこようとします。
テストパイロットとして、試験飛行で機体を無事に地上に戻す事は
第二の天性のようなものでした。
しかし、推力の失った機体ではそれも難しく、
とうとう飛行場の監視塔に右翼端を引っ掛けて、7m 程の高さから墜落してしまいました。

機体はさほど損傷して居らず、また犬飼大尉も頭部を負傷したものの生きていました。
機体から引きずり出された犬飼大尉は即座に医務室まで運ばれました。
ですが目立った外傷はないものの、耳や鼻からの出血、目の周りの色濃い隈等から
もはや手の施しようもない程の頭蓋底骨折である事は明らかでした。
やがて、柴田司令と山下飛行長が見舞いに訪れ、
それまでうわごとの様に「申し訳ない、申し訳ない」と繰り返すだけだった犬飼大尉は
司令の姿を認めたのか「司令、すみませんでした」と言ったかのようでした。
その後、司令は部下を龍名で呼び蒲田の「お光教」本部へ走らせると、
「すみません、すみません」とうわごとを言う犬飼大尉に
「うん」「うん」と静かに答えていたと言います。
しかし、うわごとは次第に細くなり、翌日の午前2時頃には犬飼大尉絶命してしまいました。
その後の柴田司令は白い布に顔を覆われた犬飼大尉に向かい、両手のひらを突き出した恰好、
今で言う気功の治療のようなポーズをしていたと言われています。

今回のこの試験飛行の失敗の原因がエンジン停止にあったのは明らかです。
そして、のちの解析からこのエンジン停止の主な原因が
燃料タンクの配管の位置に有ったとされています。
燃料タンクからエンジンへ薬液を送る薬液取り出し口は
タンクの底面前縁中央に設けられており、
16mm フィルムから割り出された試験飛行と同じ様に薬液をタンクから抜いていくと、
タンクの水面が次第に下がり、薬液取り出し口が水面から露出し、
エンジンへ薬液を供給できなかった事が今回のエンジン停止の理由であると結論付けられました。

しかし、それだけでしょうか?
まず、試験飛行の基地選びに問題はなかったか?
広大な敷地面積を誇る厚木基地なら、あるいは不時着に成功したかも知れません。
また、重量軽減のために半分しか燃料が積まれなかった事。
試験飛行において、燃料が満タンまで積まれる事は余りありませんでしたが、
今回の場合は、狭い滑走路からの離陸を可能にするための重量軽減として
燃料が約 1/3 の量まで減らされました。
そしてこの2点の決定するにあたって、
柴田司令が「お光教」の予言に影響を受けなかったとは考えづらい物があります
しかし、これらは全て結果論です。
柴田司令は決して、全てを「お光教」のお告げで決めた訳では有りませんでした。
本国ドイツですら持て余したこの機体を、ロクな設計図も無いところから始め、
困難や事故にぶつかりながらも、ここまで部隊を引っ張って来ました。
そのような状況で、どうにも甲乙判断つけ難い時、
また現実に対し状況がそれを許せなくなった時、
何かに頼り、それを自己の理由付けとする事は万人が良くやることです。

この後、行く度かのエンジンの試験や、
グライダーによる搭乗員の育成は続けられましたが、
結局、終戦のその日まで「秋水」が再び空に舞い上がる事は有りませんでした。


ここで話は元に戻りますが、
もし、設計図が完璧な形で日本に渡り、もっと早く実用化され実戦投入されていて、
その運用部隊が上記の実験部隊のような性格を持っていたならば、
冒頭で述べたように比叡山に「秋水」の基地が作られた事も、
あるいは有りえたかも知れません。
考えても見てください。
京都の空を比叡山から白い尾を曳き駆け上っていく「秋水」。
あたかも、京の都を守護する龍が駆け上っていくかのようではありませんか!



参考文献:異端の空 渡辺 洋二 著 文春文庫


テキスト一覧へ戻る