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Copyright (C) 1997-2006 by Tomy.
荘子
(そうじ)
北冥有魚、其名為鯤、鯤之大、不知其幾千里也、化而為鳥、其名為鵬
北冥
(ほくめい)
に魚
(うお)
あり、その名を鯤
(こん)
となす、
鯤の大いさ、その幾千里なるを知らざるなり、
化して鳥となる、その名を鵬
(ほう)
となす
北の海に鯤という名の魚がいた。鯤の大きいことといったら、何千里あるかわからない。
化けて鳥となる。その名前を鵬と呼ぶ。
至人無己、神人無功、聖人無名
至人
(しじん)
は己
(おのれ)
なし、神人
(しんじん)
は功なし、聖人は名なし
至人は自分にこだわらない。神人は功績にとらわれない。聖人は名誉に関心を示さない。
鷦鷯巣於深林、不過一枝、偃鼠飲河、不過満腹
鷦鷯
(しょうりょう)
深林に巣
(す)
くうも、一枝
(いっし)
に過ぎず、
偃鼠
(えんそ)
河に飲むも、満腹に過ぎず
ミソサザイは深い林の中に巣をつくるが、必要なのはたった一枝、
カワウソは黄河の水を飲むけれども、腹いっぱいになるだけあればそれで十分である。
朝三而暮四
朝は三にして暮
(くれ)
は四
朝に三杯、夕方には四杯
(実質的には何の違いもないのに、目先の違いにとらわれて、
怒ったり喜んだりする姿を笑った故事による。
………むかし、猿回しの親方が、あるとき、猿にどんぐりを与えながら、こう言った。
「これからは、朝に三杯、夕方には四杯やることにしよう」
猿はいっせいにいきりたった。そこで猿回しが、
「済まん、済まん。それでは、朝に四杯、夕方は三杯にしてやるぞ」
猿はたちまち機嫌をなおし、キャッキャッと喜びの声をあげた。)
荘周夢為胡蝶
荘周、夢に胡蝶となる
荘周は夢の中で一匹の胡蝶になっていた。
(「荘子」の中でも広く知られている説話の一つ、全文を訳すと………
いつのことだったか、荘周、つまりこの私は、夢の中で一匹の胡蝶になっていた。
ひらひらと空を舞う胡蝶である。心ゆくばかり空に遊んで、自分が荘周であることも、もはや忘れはてていた。
ところが、ふと目覚めてみれば、まぎれもなく私自身。荘周以外のなにものでもない。
いったい、荘周が夢で胡蝶になったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか。
世間の常識に従えば、荘周と胡蝶とはたしかに別物である。
だが、「物化」−すなわち生々流転してやまない実在の世界においては、夢もまた現実であり、現実もまた夢である。
荘周もまた胡蝶であり、胡蝶もまた荘周であって、そこになんらの区別もない。)
吾生也有涯、而知也無涯、以有涯随無涯、殆已、已而為知者殆而已矣
わが生
(せい)
や涯
(かぎ)
りあり、而
(しか)
して知や涯りなし、
涯りあるを以って涯りなきに随
(したが)
う、殆
(あやう)
き已
(のみ)
、
已
(すで)
にして知をなす者は殆きのみ
人間の生命には限りがあるが、知の働きには限りがない。
生命のこの有限性を度外視して、知の赴(おもむ)くままに無限を追求すれば、安らぎの訪れるときはない。
私どもは、この道理を承知していながら、しかも、知から離れることができない。
縁督以為経、可以保身、可以全生、可以養親、可以尽年
督
(とく)
に縁
(よ)
りて以って経
(けい)
となさば、以って身を保つべく、
以って生を全うすべく、以って親
(しん)
を養うべく、以って年を尽くすべし
世間の善悪に偏らないで、自然のリズムに従って生きれば、
おのずから伸びやかな人生が送れるし、親にも十分な孝養が尽くせるし、
与えられた寿命を全うすることもできる。
善哉、吾聞庖丁之言、得養生焉
善きかな、吾庖丁
(ほうてい)
の言を聞きて、養生
(ようせい)
を得たり
すばらしい。私は、庖丁の言うことを聞いて、人生を生きる極意を得た。
(むかし、庖丁という名コックが魏(ぎ)の恵(けい)王の前で、一頭の牛を料理してみせた。
庖丁が牛に手をかけて肩に力をこめ、足の位置をきめ、膝で牛をおさえたかと思うと、
みるみる肉が骨から切り離されていく。あざやかな庖丁さばきはリズムにのって、
まるで優雅なダンスでも舞っているようなあんばいである。
恵王が思わず、「おお、みごと。まさに神業じゃ」と感嘆すると、庖丁は、つと庖丁をおいて、こう語ったという。
「むかし、この仕事についた当座は、目にうつるのは牛の外形でした。
三年ほどたつうちに、牛の外形は消え失せ、骨や筋が見えるようになりました。
今では、牛に向かうと、心が働きます。すでに感覚は働きを止めて、心だけが活発に働き出すのです。
そのあとは自然の摂理に従うだけです。牛の体に自然に備わっているすきますきまを切り割いていく。
ですから大きな骨はもちろん、筋や肉が骨と絡み合っている部分でも刃こぼれすることはありません」
恵王は、これを聞いて、冒頭の声をあげた。)
安時而処順、哀楽不能入也
時
(とき)
に安んじて順に処
(お)
れば、哀楽入
(い)
る能
(あた)
わず
時のめぐり合わせに身をまかせ、自然の流れに従って生きるなら、
悲しみにも喜びにも心をかき乱されることはない。
徳蕩乎名、知出乎争、名也者相軋也、知也者争之器也、二者凶器、非所以尽行也
徳は名に蕩
(うしな)
われ、知は争いに出
(い)
づ、
名なるものはあい軋
(きそ)
うなり、知なるものは争いの器
(うつわ)
なり、
二者は凶器にして、尽くし行なう所以
(ゆえん)
にあらざるなり
人間の徳は名誉にとらわれることによって失われ、知は争いがあることによって発達してきた。
名誉心にとらわれ、知に頼っているかぎり、人間同士の対立抗争は激しくなるばかりだ。
名誉心も知も、相手を傷つけ自らを滅ぼす凶器である。そんなものに依存してはならない。
無聴之以耳、而聴之以心、無聴之以心、而聴之以気
これを聴くに耳を以ってするなくして、これを聴くに心を以ってす、
これを聴くに心を以ってするなくして、これを聴くに気を以ってす
耳で聴くよりも心で聴く。いや、心で聴くよりも気で聴くことが必要である。
蟷螂怒其臂以当車轍、不知其不勝任也
蟷螂
(とうろう)
その臂
(ひじ)
を怒らして以って車轍
(しゃてつ)
に当たる、
その任に勝
(た)
えざるを知らざるなり
蟷螂(かまきり)は、物が近づくと、たとえ車の輪のような巨大なものでも、斧をふりあげて立ち向かっていく。
その意気込みは壮とすべきだが、しょせん、踏み潰されるのがオチである。
人皆知有用之用、而莫知無用之用也
人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり
人々は皆有用なものが有用であることは知っているが、
無用と思われているものこそが実は有用であることを知らない。
立不教、坐不議、虚而往、実而帰
立ちて教えず、坐して議せず、虚にして往
(ゆ)
き、実
(じつ)
にして帰る
講義するでもなし、議論するでもない。押し付けがましいことは何ひとつ口にしないのに、
それでいて、彼のもとに行けば、何かしら心が満たされるような思いで帰ってくる。
(魯(ろ)の国にいた王駘(おうたい)という大変人望のあった人物を評したもの)
自其異者視之、肝胆楚越也、自其同者視之、万物皆一也
その異なるものよりこれを視
(み)
れば、肝胆
(かんたん)
も楚越
(そえつ)
なり、
その同じきものよりこれを視れば、万物もみな一なり
あらゆるものは違うという点から見れば、どれ一つとして同じ物はない。
たとえば、すぐ近くにある肝臓と胆嚢(たんのう)でさえ、楚の国と越の国ほどのへだたりがある。
これに対し、あらゆるものは同じだという点から見れば、万物はすべて一つである。
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