(高校の文化祭のオーディションで『Young Bloods』を演奏しているカット。
当時なんと17歳!若〜い…。−今はなき長田高校講堂にて:1985.3 撮影−)
初めて元春を聴いたのは中学2・3年生(1981〜82)の頃、『Someday』や『ナイアガラ・トライアングル Vol.2』の頃です。小学生から中学生にかけてはYMOのファンでしたが、1981年頃にはシングル『Someday』をラジオで聴く機会もあって結構気に入り、この頃に元春の存在を知りました。
また、1982年頃、学習研究社の『Soundall』という雑誌(オーディオ・音楽雑誌のはずが次第にテクノ・ファンのカルト誌に変容していった)で、当時リリースされたばかりの『ナイアガラ…Vol.2』のメイキング話の記事を読みました。そこには、当時「うなずきマーチ」など(我ながら極端な例…(^^;)で絶好調だった大滝詠一が『彼女はデリケート』(だったかな?)の録音時に「もっとシャウトしてみろー」とかなんとか元春にアドバイスした云々の話が出ていて(この辺の記憶は不正確です)、大滝詠一って大御所なんだなーとか、元春って大滝詠一の弟分みたいなものなのか?などと勘違いしてた記憶があります。f(^^;
高校入学時に自己紹介をした時、「俺はテクノファンだー」とか何とか言っていたら、すぐに仲良くなったある友人に「僕はテクノを否定する。もっと熱くなれる音楽=Rockを聴け。日本でRock Musicianと呼べるのは元春だけだー」と反論されてしまいました。彼は1983年頃までの元春の曲のバンドスコアをいつも熱心に読み、また下敷きにロックン・ロール・ナイト・ツアーの頃の元春のグラビアを大事そうに挟んでいました。彼に幾枚かのグラビア(1980年のルイードでのLiveの写真(ストライプのジャケットを着てる)とか同じくジャケット着てテレキャスターや赤のストラト抱えてる1981〜1982年頃の写真)を見せてもらい、かっこいいなーと正直、思いつつも、私はちょっぴり悔し紛れに、
「この写真、ずうとるびの新井康弘にちょっと似てへんか〜?」
などと失礼千万なことを述べておりました。
その数日後、『No Damage』がリリースされたので、件の友人にtapeに録音してもらい、『Someday』・『A面で恋をして』以外の元春の曲を、この時初めて本格的に耳にすることとなりました。この年の夏頃にはすっかり元春ファンになってしまい、次々と過去の曲をtapeに録音してもらって聴きながら、「元春、早くN.Y.から戻って来ないかなー」とか思ってました。
翌1984年春には、件の友人が結成したバンドに参加することになりました。以降、高校在学中ずっとバンド活動をして、文化祭などで元春のコピーとかやってました(私はDrum担当でした)。
そんなバンド活動のさなか、1985年2月には「Visitors Tour」で元春が神戸・姫路に来たときに、私も姫路でのコンサートに行き、初めて本人を間近で見ました(下記参照)。
元春の曲はどれも高校時代の個人的な出来事と密接に絡み合っていて、大事なものばかりです。
てな訳で、私は元春の長い音楽活動歴に照らせば、比較的「Old Fan」ってことになるのでしょうか…? 1983年の『No Damage』の大ブレークでファンになったものの、ご本人がN.Y.にいたためにずっとレコードで我慢していた多くの人々のひとりな訳です。
・その時の感想:
N.Y.から帰ってきた元春にやっと会えた!ラップなど新感覚を取り入れた当時の新アルバム『VISITORS』に、当初は違和感を覚えた一人でしたが、すぐに馴染みました。Liveの前に会場のロビーで見た『Young Bloods』のビデオがいかしてました。新アレンジの『アンジェリーナ』が期待以上によかったです。前から2列目の、元春の汗が飛んで来そうな席で、声が枯れるまで共に歌って騒ぎました。会場で売ってた雑誌『THIS』も怪しげでよかったッス。
★こぼれ話★
この夜、興奮のあまり寝つけず睡眠不足となったので、翌日の高校の柔道の授業中、乱取りで手を抜いてたら見事に外掛けをくらい、脳震盪を起こして1時間ほど一時的な記憶喪失になってしまいました。(T-T)
同級生の間で今でも時々笑いと共に語られる情けないエピソードてす。
「遠因は元春Liveにあり」と強弁するは、ドジを踏んだ本人のみ…。 (^^;
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