小説・人形の瞳

 生命を持たない彼女は、壊れるか朽ち果てるまでの永い時間を、少女として存在し続ける。何も見ないけれど輝くようなガラスの瞳、温かみもないけれどきめ細かな胡粉の白い肌…。時は彼女を少しずつ侵食し、褪せさせて行く。それでも少女の姿を保っている限り、誰も彼女を廃棄しようとは考えない。

 しかし彼女は魂の欠片を持っていた。それは多分、人形の頭へと移植された本物の少女の毛髪に残っていた想い。毛髪は、亡くなった人形師の娘の遺体から抜かれたものだった。人形師は鋏を使わずに、愛するものの髪を一本一本、自分の手で引き抜いた。初めは嗚咽し、涙を流しながら。けれどすべての毛髪を抜き終わる三日目の夜までに、彼の目からは一遍の曇りもなくなり、これまでにない強い光が差し込んでいた。人形師はそれから十日の間、独り工房に篭もり、ここにある一体の人形を残して忽然と消えてしまった…。

 毛髪の持ち主だった少女は、赤ん坊の時から父が人形を作るのをじっと側で見続けていた。人形師にとって、幼く愛しい我が子とはいえ、厳しい職人技を持って創造を行う仕事場に娘が入ってくるのは、邪魔でしかなかった。けれどもこの子には、慈しみ面倒を見てくれる母はいない。子供は一度叱られた後、息をするのもはばかるようにほとんど身動きもせず、ひたすら静かに工房に居続けると、父の手先だけを見つめるようになった。

 ここを訪れたひとは、工房の隅で静かに佇んでいる娘を、必ず人形と見間違えた。また、無意識のうちにか、人形師の作る人形も次第に娘に似てきていた。しかし、人形の方が娘よりもずっといい着物を着て美しく見えたから、よく見ないと似ている印象を受けないのだ。

 少女は父の作る人形が好きだったが、ひとつも持ってはいなかった。人形は完成するとすぐに、どこかの金持ちの家へと売られて行くので、家にはほんのわずかな間しか置いていられない。だから少女は、父が作っているのを見ている時だけ、人形を目にしていられるのだ。

 父も娘に、自分の作った人形をあげたいとは思っていた。しかし時間的にも経済的にも私的な仕事をしているようなゆとりはなく、かと言って片手間に作ったような粗末な人形で娘を遊ばせたくもなかった。それでもいつか、誰も持っていないような立派な人形を娘のために作り、思う存分抱かせてやりたかった。

 けれど少女の方は、自分だけの人形を欲しいとは思わなかった。少女は家が山奥にあったこともあり、同年代の子供達と遊ぶこともほとんどなかったから、作られていく人形が自分と同類の存在に思えた。自分と同じ女の子の形をしている、動かず、喋らず、ただ慈しまれる存在。いつのまにか、人形のように静かな性格になり、あまりものごとを考えないようになっていた。ただ、完成した人形のように、どこか見知らぬ人間の元に連れていかれるという悪夢をときどき見るのだ。

 そんな少女の家に、若い女性がやってきた。彼女は人形師の作った人形を一体持っていた。その作者である人形師を憧れ慕って、家を出てこの山奥まで来たのだと言った。それも本当だろうが、人形師の人形を持てるくらいの金持ちであろう家を出るには、また別の理由もあったに違いない。けれど人形師はなにも言わず、彼女を家に置いた。

 女性は、持ってきた人形とよく似ている人形師の娘が気に入った。この少女は自分が父と喋っていても嫉妬するようなこともなく、人形のように静かだった。あまりにも静かで、穏やかな表情ながら笑顔も見せない少女に少し近寄り難さも感じたが、しかしこの少女の人形のような美しさを引き出そうと、風呂で磨き、髪を梳かし、自分の持ってきた上等な着物を着せた。この家には鏡がなかったので、ある日わざわざ山の中の泉に連れて行って少女に自身の姿を見せた。あなたはこんなにきれいな子なのよ、と気付かせてあげたかったのだ。

 しかし清水に映った自分の姿を見て少女は、自分は人形そのものだったのだ、と認識した。その途端に少女は息することをやめ、心臓を停止させてしまった。

 髪を刃物で切り取られなかったからか、髪にわずかに残っていた少女の魂は移植された人形に根付いた。それと同時に人形に嵌め込まれたガラスの眼球が、徐々に周りの風景を映し出した。ぼんやりと薄暗い。泣いている女性の顔が大きく見える。この女性が自分を抱きしめているんだ。知っているひと。でも人形は記憶を持たない。

 人形師が工房に篭もっている間、女性は放心状態だった。泉から冷たくなった少女の亡骸を運んでから何日経ったのか、何かの気配にやっと正気を取り戻した時、工房に人形師の姿はなかった。工具と削り屑が散らかった部屋の隅に、この人形が静かに座っていた。何かの気配は、この人形から感じられていた。人形の顔にはなんの感情もなかったけれど、瞳の奥にわずかな光が灯っているのを見付け、思いきり抱きしめた。

 彼女は二体の人形を抱いて山を下り、家には戻らずに働きながら旅を続けた。その途中、人形にそっくりな女の子を産んだ。女の子は赤ん坊の時から一体の人形を遊び友達に、明るく元気に育っていった。母が持っているもう一体の人形には、触れさせてもらえなかった。いや、なんとなく近寄り難かったのだ。夜中に目が覚めてしまった時に何度か、母がその人形に優しく話し掛けているのを見たこともあった。

 女の子は成長するにつれ、母の人形に惹かれていった。自分の人形を抱きながら、母の人形には触れることなく、その瞳をじっと見つめた。どこか自分の人形とは違う感じがして少し怖くなり、そんな時は努めて明るい声を張り上げて外に遊びに出た。

 哀しいことがあったある日、はじめて人形に話し掛けてみた。もちろん人形は答えないしなんの変化もなかったけれど、なんだか心が軽くなったように思えた。それからは毎日、その日の出来事を人形に話すようになり、嬉しいこと、哀しいこと、悩んでいることなど、母にも友達にも話さないなんでもが、人形に語られた。

 母は娘の行動に気付いていたけれど、なにも言わなかった。妹が少しでも、人間として生きていることの素晴らしさを姉に伝えてくれればいいと思うのだ。もちろん人形はなにも考えないけれど、その瞳でたしかに私達のことを見ている。人間の方が先に死んでしまって、人形は記憶もしないだろうけれど、その魂は永遠に少女の姿で、いつも誰かに愛されながら、生きることを感じ続けるはずだ。

 人形になり父の手を離れた少女に、悪夢だけは見せてはいけない。

---終---