治部坂峠 (長野県平谷村−浪合村)

平谷峠から平谷村の中心地へ下り、国道153号線へと右折する。実はこの道が根羽から平谷へ入るところに赤坂峠というのがあったが、見落としていた。低い方の売木峠も含めて再度来る必要がありそうだ。
隣の国道151号線より良好な道を登る。正面の山々は雲に覆われて真っ暗だ。下りて来る対向車が皆ライトを点灯しているので、天気も悪いのだろう。
正面は横岳。これは恵那山から南東に流れる尾根で、標高は1574メートルと立派なものだ。もっとも、その北の大川入山は1900メートルもある。
道は横岳と柳川を挟んでそびえる高嶺山の山すそを進む。道が広く、整備されているためか、登りは厳しく感じられない。
その柳川を渡ると道は大きくカーブして横岳の山体に移る。それを巻くようにして進むと切り通しの治部坂峠に出た。峠には両方向から読める看板があり、標高は1187メートルとある。ロードマップとは微妙に違うが、測量した場所が違うためだろう。平谷村の交差点が910メートルだから、確かに大した登りではない。
| この村には南朝の残党の記録がある。『浪合記』によると、後醍醐天皇の孫で、宗良親王の子である尹良親王が応永32年(1424年)、この地で討ち死にされたとある。もっとも、この話の元ネタである『浪合記』自体が江戸時代の軍記物で信頼性に疑問があり、実際年代にも無理があるように思う。尹良親王の父である宗良親王は1386年に70余歳で亡くなっているが、それから40年近くたっている。比叡山で天台座主をしていた宗良親王が還俗して活動を始めたのは1340年代である。尹良親王がこの頃に生まれたとすると80歳を過ぎていたことになる。仮に1360年代生まれでも60歳を過ぎていたことになるから、いずれにせよかなりの年齢であったことになるだろう。さらに尹良親王の息子の1人は1492年に尾張津島で亡くなっていることになっているが、これは親王の死から数えても68年後である。この人も相当な高齢であったわけだ。2代続けて高齢で子供を儲け、さらにその子が長生きしたことになる。
こうしたことから、親王の存在そのものを疑う説や、山の民の信仰する神様の由来を仮託したのだとする説もある。 それでも、浪合村には親王の墓なるものが存在し、宗良親王は三河・遠江・南信濃を拠点として活動した時期があるので、この地で伝説の原型となる人物がいたことは確かだと思われる。 |
ここからは浪合村。四方全てを山で区切られた山奥の小さな村である。
浪合側はスキー場があるので、ロッジや店が並んでいる。そこを過ぎるとS字にカーブして村の中心地へ下って行く。
(1995.7.1)
赤坂峠から平谷の十字路へ戻る。ここからの道は前回通った道である。前回同様、前方に見える高嶺山の山頂は雲に覆われて暗い。広い駐車場と豪華な建物の『道の駅平谷』を横目に先を急ぐ。
治部坂峠の登りも最初は直線的に柳川の谷を詰めてゆくだけ。この辺りは『うつぼ』という地名だ。漢字だと『鞅』で矢を入れる道具のこと。
正面は今日も山頂が見えない横岳。恵那山から南々東に流れる尾根のピークで、治部坂峠もその尾根にある。大きなカーブを描く第一横岳橋で柳川を渡ると、高嶺山の斜面から横岳の斜面に移る。そこからはややカーブが現れるようになり、横岳の山腹を回りながら登る。
やがて両側がコンクリートで固められた水路のような切り通しの道になり、その最高地点が1187メートルの治部坂峠である。
峠の北はスキー場で、それらしい建物や駐車場の並ぶ間を一直線に下る。それが大きなS字カーブを描く部分がきついが、それ以外はひたすら真直ぐの下りだ。
浪合トンネルの手前で阿南という看板が目に付く。うろ覚えの地図で、阿南の中心部に出るように記憶していたため構わず右に入ってしまった。
道は車がすれ違える程度の幅で、谷間へとぐんぐん下って行く。やがて浪合村の中心地の家並みの中に入った。集落の中では若干狭くなるが、対向車はなく困らない。郵便局の前を通って橋を渡ると正面に旅館のような建物がある突き当たりになった。左は国道153号線で飯田・阿智とあり、右は阿南とある。
右折して阿南に向かった。一応県道で、舗装もきちんとされている。幅は場所によりけりで、大型車でもすれ違えるような部分もあれば、まずすれ違い不可能という部分もあった。
和知野川に沿って走る。標高差の関係で大部分は下りだが、小さな登りもあって山道としては申し分ない。ただし、時間が遅いので暗くなるのと競争だ。
集落がなくなると、やや路面が怪しくなる。林の中ではヘッドライトを点灯する必要があった。スモール・ライトは対向車のことを考えて早めに点灯する。
だんだん寂しくなってきて、不安になる。最初はもっと短いと思っていたのだが、後で地図を見ると新野から平谷まで走るよりありそうだ。岩肌の露出した崖下道では落石が散乱しており、舗装が壊れているところもあって不安が増す。暗さが一層拍車をかけた。
阿南町に入ってからしばらくなかった集落がようやく現れる。上和合の集落。さらに寺村を過ぎると再び家並みが途切れ、谷底を走るようになる。木曽畑を過ぎても状況は変わらず、寂しい道が続く。対向車は数台のみ。
やがて、川に沿っていた道が右へ登って行く。小さな峠を越えて谷間に下り、再び登りかけた右手に売木という標識があった。売木から売木峠を越えて根羽へ抜ける県道だ。入口からして怪しそうで、降雨量により通行止めになる旨の看板が出ていた。それを横目に直進すると、目の前にガードレールが見えた。
ようやく辿り着いたと思いほっとする。その道への最後の登りを走りながらもしかしてと思ったが、その通り国道151号線が和知野川の橋を渡る所の分岐点だった。予想以上に南に出てしまったわけだ。下條村の睦沢で阿智に向かう道が分岐するが、そこと勘違いしていたのである。
かくして飯田まで35キロばかり戻る羽目になった。山道で神経を使ったので、とても国道153号線を北上する気分になれず、飯田ICから中央道に乗った。
(1996.9.7)
赤坂峠の画像を撮影し、道の駅信州平谷で休憩して治部坂峠に向かう。道は変わらないが、峠にはスノーシェッドが作られていた。最高地点はスノーシェッドの浪合側入口付近になる。
国道153号線をそのまま進み、寒原峠を越えて飯田に向かう。
(2002.11.9)

