私的中也論 その一 中也と信仰 中原中也がカトリックの信仰によってその詩作に影響を受けていたというのはしばしば語られることだが、私はこれに諸手をあげて賛成することができない。 なぜなら彼は、<神>に救いを求めていないからだ。 <信仰>とは、自分が処理できない何かにぶち当たったときに人以上の力の存在を意識し、自分を許すためのファクターとしての役割が重要だが、それを享受しようとする姿勢は少なくとも彼の詩の中に見出すことはできない。 確かに彼は神の存在を信じている。でもそれは、彼にとってあまりにも無慈悲な神で、それを彼は信じていたからこそ、拳を高く振り上げて、その慈悲の無さを、半ば諦め、半ば自棄となりながら、糾弾し続ける。 彼の詩多くが、神に<クォ・ヴァディス・ドミネ>と問いかける詩であるのは間違いない。 晩年には、愛児・文也の死の後に、救いを求めようとする詩がいくつか見られるが、それも、イメージとしては単純化されたカント・デカルト的な生活の先にある安寧を求めたものであって、カトリック信仰としての神の救済を求めたものではない。カントが信仰心の元に単調で厳しく管理された規則正しい生活を求めたことは確かだが、中也のそれは、アニミズム的な融合による平安を求めた形であることは、「別離」や「春日狂相」により証明されていると私は考える。─未完 2002/10/27
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