サイパン島に昔住んでいた方、およびサイパン神社のことをご存知の方を探しています。お知り合いにこのような方がいらっしゃいましたらご連絡いただけますでしょうか?お会いしてお話しを聞かせていただきたいのです。
【私にとってのサイパン】
■2005年6月27日 天皇陛下のサイパン島慰霊
天皇陛下がサイパン島に慰霊のためだけに訪問されました。戦後60年のことです。ここで戦死した私の祖母・祖父・まだ発見されていないその子供達は、今サイパン島の土の中で何を感じていることだろうと想像するに耐えません。天皇陛下がお越しになるこの日、私はその島に行くことが出来なかったことが悔やまれます。終戦の8月になると、毎年沖縄のさとうびき畑の歌が歌われ、ジブリの「ほたるの墓」が放送れます。でも、激戦地サイパン島のことは滅多に報道されることがありませんでした。その他の南洋諸島の激戦の事も同様です。ただ沖縄が大きく取り上げられてきました。
サイパン島は日本から2,300km程の近い島です。多くは沖縄から移住したのですが、私の祖父は広島からの移住と聞いています。彩帆神社の神主になるために。そこは楽園のような世界だったと母から聞いています。その楽園が爆撃で何もない島になってしまった事は今は思い浮かべることもできないリゾート地です。平和な世界になったのですからそれはいい事だと私は感じています。でも今後、いつかきっとサイパン島を慰霊のために訪れて下さると嬉しく思います。
サイパン島といえば
南の楽園、観光の島という印象しか無いのではないでしょうか?
行ってみると、グアム島やハワイのオアフ島とは全く異なる所であることが分かります。
空港の周辺を含めて、「大きな」と言える街はありません。
とてものんびりとした島です。
交通量も最近になってまあま増えましたが、それにしても多いというわけではありません。
島の中央にはタポチョ山という山もあり、その山頂から見る島と海の景色は素晴らしいものです。
このサイパン島は、私と家族にとって特別な意味のある島なのです。
私の母親は、このサイパン島で誕生しました。
昭和4年のことです。
サイパンは戦前まで日本が統治していた
知らない方が多いのですが、先の第二次世界大戦の途中まで、サイパン島は日本のようなものだったのです。
正確に言いますと、北マリアナ連邦という国であり、そこを日本が統治していたのです。
第一次世界大戦で勝利した日本は、その直後からサイパンの統治をするようになりました。日本人が沢山移民したのです。
このため、日本風の建物が立ち並び、島の多くの土地においてサトウキビが栽培されるようになりました。
なんとそのサトウキビを運搬する目的で、トロッコ列車のための鉄道も建設されたのです。
また、日本人にとって欠かせない米も栽培されていたため、島の中には水田もありました。
それはまるで現在の日本国内のような景色だったようです。
現地に昔から住んでいるチャモロ人と日本人は仲が良く、日本人が統治していたために島全体が活気あり潤っていたのです。今のサイパン島からは考えられない光景です。
サイパンは現在も北マリアナ連邦という国であり、アメリカが統治しています。
参考までに、お隣のグアム島はアメリカの一部です。
私の祖父はサイパン神社の神主
私の母方の祖父は、そのサイパン島で神社の神主でした。
サイパン神社です。
当時は「彩帆神社」と書き、その痕跡は今でも左の写真のように、はっきり残っています。この遺跡のように化してしまったサイパン神社は、観光ガイドブックにも掲載されなくなり、残念な限りです。写真の石には、今でも銃弾の後がはっきりと残っていて、大きくて目だったサイパン神社が標的にされていたという証言が確かなものであることを知りました。
サイパン島の中央部にシュガーキング・パーク(砂糖王公園)という場所があります。この奥に「サイパン香取神社」という名称となって、少し前に神社が再建されましたが、およそ神社という様相ではありません。また、現在そこには神主は住んでいません。毎年10月に祭礼が行なわれるときだけ、賑やかになります。
サイパン神社の近くには、戦前繁華街だった「ガラパン」という街があります。現在も島内では栄えている街です。観光で訪れる方は、このガラパンにある免税店(DFS)に行くチャンスがあると思います。
戦前に撮影されたサイパン神社の写真 (その1) その(2)
このような背景で、戦前のサイパン神社のこと、ガラパンの街のことを知っている方を探しています。
サイパン島玉砕
サイパン島は、昭和19年6月から1ヶ月間、アメリカ軍による艦砲射撃と戦闘機、そして火炎放射器による攻撃を受けました。
私の母方の家族はこれにより半数が殺され、母と数人の兄弟だけが生き残りました。
アメリカ軍は戦闘機から民間人に向かって無差別攻撃を行なったため、街から離れていた彩帆神社と私の祖父や祖母も巻き込まれたのです。今でもまだ発見されていない母の妹がサイパンのどこかに眠っています。この戦闘で死者は軍人38,000人、日本の民間人12,000人、合計50,000人に及びました。
サイパンに行くことがあったら、海を眺めてください。
その海にアメリカ軍の戦艦が並び、一斉に砲撃したことを思い浮かべてみてください。水平線はアメリカ軍の艦船で覆いつくされ、見えなかったのです。
今は美しい海が、別世界のように思えるかもしれません。
もう、そんな光景を見なくてもいい時代が続くことを望みます。
サイパンは第二のふるさと
そんな修羅場を抜けてきた母も、数年前に病気で他界しました。
サイパン島には母の遺骨を分骨し、戦争を知らない私にとって、ここが第二の故郷になりました。
日本が戦争を再び起こさない、巻き込まれないことを祈ります。
身近なところに、こういう経験をした人がいたということを、少しでも多くの方に知って欲しいと思い、掲載させていただきました。