明月/蔵沢について

「愛媛県史人物」からの抜粋。

明月

享保12年〜寛政 9年(1727〜1797)円光寺僧。
名は義道、のち明逸 。あざなは曇寧。明月のほか、解脱隠居、化物園主人などと戯号した。
周方国(山口県)八代島の生まれ。
15歳円光寺に来たり、20歳で京都に遊学、服部南郭らと交わり、古文辞学(徂徠学)を、また堺の食南山人から王義之・顔真卿などの書風を学んだ。
34歳で円光寺に帰り、宇佐美淡斎や杉山熊台などを教えた。
詩文、書にすぐれ奇行も多かった。52歳で円光寺を徳成に譲って退隠、54歳の時『扶桑樹伝』を著した。
巨木扶桑樹が太古に伊予にあったとする説で、本書と扶桑樹化石を携えて長崎に行き、中国へ渡って喧伝しようとしたが果たせなかった。
67歳の時本書は光格天皇の覧を賜り、翌年出版された。
他に『通機図解』等の著がある。寛政9年7月23日、70歳で没した。
その伝記に「明月上人伝」がある。



吉田蔵沢(よしだぞうたく)

享保 7年〜享和 2年(1722〜1802)松山藩士、南画家。
松山藩士吉田直良の長男として生まれ、享和2年2月27日81歳で没した。
江戸中期の南画家。名を良香、あざなを子馨、通称弥三郎、後に吉田家の世襲名久太夫を名乗り、蔵沢はその号である。(中略)
松山藩士として風早郡・間野郡代官、者頭役などを勤め功績顕著。その剛直爽快な人柄とともに長く士の規範と語り伝えられ、またその墨竹は古今独歩、神品といわれ、今も不滅の光彩を放つ。
彼の生きた時代は日本南画の黎明期に当たり、中国伝来の南画思潮を当地に在りながらいち早くとらえ、公職の余技とはいえ60年に及ぶ執拗な追求と恵まれた資質により、それを墨竹ひとすじに結晶させ、ついに日本・中国に比類を見ない独自の画境を確立した日本南画の先駆者の一人である。
蔵沢墨竹の特質は一切の伝習的な規範を脱し、まるで無法ともいうべき奔放さで竹を描き、しかも見事に竹に成り切っているところにある。(以下略)