香山 リカ先生 
プロフィール

1960年7月1日北海道札幌市生まれ。東京医科大学卒。精神科医。学生時代よりリカちゃん人形の本名をペンネームとして、雑誌、メディアに寄稿。医師になってからは、診察のかたわら、新聞、雑誌で社会批評、文化批評、書評なども手がけ、現代人の「心の病」について洞察を続けている。

<主な著作>
「リカちゃんコンプレックス」(太田出版、ハヤカワ文庫)
「リカちゃんのサイコのお部屋」「ココロのクスリ」(いずれも扶桑社、ちくま文庫)
「自転車旅行主義ー真夜中の精神医学」(青土社、ちくま文庫)
「きょうの不健康」(河出書房新社)
「テレビゲームと癒し」(岩波書店)
「ゲーム気分で診てみれば」(アスキー/アスペクト)
「サイコな愛に気を付けて」(青春出版社)
「テクノスタルジアー死とメディアの精神医学」(青土社)
「おかしくってもダイジョーブ!!」(ハヤカワ文庫)
「あなたのココロはダイジョーブ!!」(ハヤカワ文庫)
「眠れる森の美女たち」(河出書房新社)

<主な連載誌> 
週刊:毎日中学生新聞(ハートフル保健室)
週刊女性:(香山リカルタ)
その他、多数


<CD>

働く女性たちのためのアンビエント・ミュージック「テクノスタルジア」「クロノスタルジア」

<ホームページ>
http//www.so-net.ne.jp/stress/menu.html

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平成10年度第2回研修大会記念講演
講師:香山 リカ先生 
演題:「普通の子の生きにくさ」
この講演は平成11年1月に鎌倉芸術館小ホールにて行われました。その時の講演の録音テープをおこして原稿を作成し、香山 リカ先生に御了解を得て、このホームページに掲載しています。
今日は「普通の子の生きにくさ」というタイトルを考えてみました。
私は精神科医という職業について十数年経つのですけれど、この十数年で精神科というものに対する見方はずいぶん変わってきました。

私が精神科医になった頃は、精神病院、精神医療というとごく一部の人のためのもの、不幸にして精神病になってしまった人とか、とても大きな悩み事を抱えてしまった特殊な人達、そういう人達のための科だと考えられていました。

ところが今ではこのように一般の人達、知的な好奇心のある人ですとか、そういう人達が精神科というものに、このように関心を持って大勢の方が集って下さる。これは良い事なのか悪い事なのか私は今でも迷っています。

これだけみんなが精神医療というものに関心を持って頂けるということは良い事なのですけれども、逆に考えれば普通に暮らしている人達も「もしかしたら自分も精神科というものと全く無縁ではないのではないかな」とか「自分の中にも精神科と関わり合いがある問題が隠れているのではないかな」と普通の方もみんな感じるようになっているというのは、考えようによったら、もしかしたら、昔よりも時代が悪くなっているという、そういうことなのかもしれないです。

それが、どちらなのかな、といろいろ考えているのですが、一番象徴的だったのが、おととしイギリスのダイアナ元皇太子妃が亡くなりましたけれども、彼女もいろんな精神科とかカウンセラーにかかっていたことが知られています。

彼女自身も拒食症にかかってしまったり、過食症にかかってしまったり、ひどい鬱状態で落ち込んでしまったり、時には王子がお腹に居るのに宮殿の手摺から飛び降りたり自殺未遂のようなこともしていた、カウンセラー中毒とまで言われるくらい、いろいろなカウンセラーのお世話になっていたようです。

でも、ちょっと考えてみるとイギリスの皇太子妃は昔の考えでいけば「世界一幸せな人」でおとぎ話の主人公、おとぎ話だったらめでたしめでたし、というような立場であるはずの人が、心の中にいろんな悩み事をかかえて精神科医にかからなければいけない。それで、それを聞く私達も、それの事で特にすごく驚いたりとか、ビックリしたりもせずなんとなく「ダイアナさんにも悩みがあるのだろうな」と共感してしまえる。それぐらい心の悩み、心の問題というのは、現代では誰一人無縁な人がいない、誰もが精神科とかカウンセラーと関係しながら生きて行かなければならない、その象徴のようなそういう人だったのではないかなと思います。

私の勤めている病院でも特に特殊な人とか、不幸にして病気になってしまった人だけではなくて、普通の人、またはむしろ頑張る人とかまじめな人一生懸命生きているような人が、心に問題を抱えて受診に訪れる、そういう方が大勢いらっしゃいます。
すこし話はズレますが、こういう状況というのは少年非行を扱う家庭裁判所の担当者の方も同じようなことを言っていました。
昔であれば、非行を起こすような少年というのは、必ず家庭裁判所の人が見てもなるほどなと思うような原因とか動機があったそうなのです。
例えば、お家がすごく貧しくて食べるものにも困って万引きしてしまう、家庭が崩壊していて両親がバラバラで心がすさんでしまって非行に走るとか、
世の中にものすごく恨みを持っていてそれを晴らすために人に暴力をふるう、というように動機や原因が必ずあって非行というものが起きたそうなのです。

ところがここ数年状況は大きく変わってきて、動機無き非行とか、自覚無き非行とでも呼びたくなるようなそういうパターンの非行がとても増えているそうなのです。

とにかくお家も普通の家庭に育って困っているわけでも無い、お父さんお母さんもそろっていて、少し位は問題はあるけれども家庭が崩壊しているというわけでも無い。
なにも不自由無く暮らしているはずの少年がある日突然暴力をふるうとか、万引きしてしまうとか、放火してしまう、人を傷つけてしてしまうというような犯罪を突然起こしてしまう。
それで、その少年を補導してみても、そういう人達というのは自分にも動機とか理由がなく非行の行動をしているわけですから、当然罪悪感も無いそうなのです。
それで、家庭裁判所で補導すると、反省文を書いてもらうのですが、それも非常に表面的、一応文章では「すみません悪いことをして申し訳ありません」と書くけれども全然真実味が伝わってこないような、そういう反省文を書く、いったい彼らをどうやって矯正すればよいか、どこから手をつけてよいか、家庭裁判所の人達も困っている。そういう話を聞いたことがあります。
私たち精神科の臨床の場面でも、それと非常に似た事が起きているのです。それは特に若い患者さんに目立つのですが、昔は精神科に来る人といえば、私たちが普通にイメージするとすごい悩み事があって相談に来るのではないか、自分の心の中に苦しみとか葛藤そういうものがあってそれで受診するのではないか、そういうふうに思われるのではないかと思いますが、今、子供や思春期の若い人のケースでは「なんだかわからないけれどもとにかく問題行動を起こしてしまう」例えば突然家庭内暴力を起こしてしまったとか、突然過食症になってしまって食べるのが止まらなくなってしまった、あるいは万引きを繰り返してしまって自分でもどうにもできない、あるいは自分の体に傷をつけてしまう自傷行為と言われているように自分に対して暴力をふるってしまう、自己を破壊してしまうような行動を突然起こしてしまう。
そういった突然何か異常な行動を起こしてしまうということで病院に来るというケースが若い人の場合非常に増えているのです。それで彼らに、まあ一応精神科の診察のパターンとして「どうしてそんなことをしてしまったの」とまず理由を聞きますよね。
でもそういう事をしてしまった人は、必ず「自分でもよくわからない」と言うのです。「自分でもどうしてしてしまったかわからないけれども、そういう異常な事をしてしまった」というような言い方をします。
それで、彼ら彼女らにいくら聞いてもその背景にある悩みとか苦しみ、葛藤みたいなそういう感情が全然見えてこないのです。
その辺は先ほどの少年非行のパターンによく似ています。さっき、動機無き非行、自覚無き非行、罪悪感の無い非行と言いましたけれども、精神科の臨床の場でも同じですね。原因無き理由無き自覚無きそういう行動ですとか症状が非常に増えているのです。ひどい人になりますと「自分で何をしたかも覚えていない」そういう事を言う人もいます。
例えば過食症でケーキを何個も食べてしまって止まらないある少女は、こんな事を言っていました。「私が食べるのではなくて、はっと気づくとケーキの空箱を抱えた私が立っているのです。」あるいは、「はっと気が付くと空っぽの冷蔵庫の前に居る自分を発見しました。」全く他人事のようにすべてが終わってしまってからはっと我に返る、するとそこに結果がある。家庭内暴力をする少年もそうです。 
「自分でした覚えは無い、だけれども我に返ったとき血まみれのお母さんが横たわっていました。」そういう言い方なのです。ですから、そういう少年少女達に言葉を使ったカウンセリングをしようと思ってもこれはもう本当に難しいのですね。彼ら自身が「自分がやった覚えが無い」とか、「自分は悩みは無いんだ、異常な事をするような苦しみも悩みも無いんだ」と言い張る訳ですから、そこで言葉を使ってカウンセリングに持ち込もうとしても、なかなかうまくいかないのですね。彼らが必ず言うのは「そんな難しい話はいいから、異常な事をしてしまうそこだけ止めてくれればいい」と言うのです。
「自分は万引きしてしまうから、万引きしないようにそこだけしてくれればいい」「私は過食をしてしまってどうしても止まらないので、そこだけ止めて欲しい」と今の子達は言います。こちらがいくら、「そういうふうに止めて欲しいと言ったって、そういう事をするからには何かあなたの心の中に原因があるはずだから、その心の中の原因を一緒に探して行きましょう」と言っても「いや、私の心の中にはそんな悩みは何も無いんだ。
とにかくこの手が悪い」とか「口が悪いんだからそこだけ何とかして欲しい」というような、そういう言い方をする若い人達がたくさんいて、私たち精神科医も「そういう子達にどうやって近づいて行こうか、今迄のやり方ではとてもその子達に近づいて行けない」ということで、今、非常に困っています。
というように、今、少年非行の現場でも思春期の人を診る精神科の臨床の現場でも本当に同じような事が起きているのです。多分それは学校ですとか、家庭といったような場でも同じ状況ではないかと思います。それで、一体どうして「行動だけ起こしてしまうけれども、それに伴った心は何も無い」というような非常に奇妙な現象がどうして起きてしまうのか、ということなのですけれども、そのような少年少女達を今までいろいろ診てきた経験から考えると、一言で言えば、「自分というもの自体が出来上がっていない」そういう印象があります。
その子達に「あなたはどう考えているの。あなたはこの自分がやってしまった行動をどう思うの」とこちらが問いかけても、その「あなたは」と聞かれても、そういう聞かれる私とか僕というもの自体がどういうものなのか、その漠然としたイメージも持っていない、そういう子がいるのです。
普通私たちは、20歳以上のいわゆる大人といわれるような年齢になると、だいたいは漠然とでも自分というもののイメージをみんな持っているはずだと思うのですね。それが正しいかどうかは別としても、例えば「あなたはどんな人ですか」と皆さんの一人に聞いた場合でも、必ずいろいろ説明できると思うのですね。
「私は何歳で名前はナントカで、家族は何人で」というところから始まって、例えば「性格はちょっとオッチョコチョイで」とか「特技は手芸で」とか「外が大好きなそんな明るい女性です。」というように何か自分のイメージというものが、漠然とでも出来上がっていると思うのです。
私たち人間というのは、そういう漠然とでもいいから自分自身のイメージというものを自分で持っていないと、毎日生活出来ないはずなのですね。自分というのはこういう人間なんだというものを自分でイメージ出来ていないと、とても不安で、一歩も外へ出られないようなそういうものな訳なのです。
逆に言えば「大人になるということは、そういう自分のイメージというものを自分でうまく作り上げて行くこと、自分で自分自身というのはどういう人間かといことを知っていくこと」というふうに言ってもよいと思います。
ところが、先ほどの少年少女達を見ていると、自分のイメージというものが全然出来ていない。あるいはまったく間違った自分のイメージを持っていたり、非常にズレていたり、バラバラになっていたりそういう現象を目にします。
ただ、今言いましたように自分のイメージというものが全く何も無ければ生きていないのと同じというか、丸裸で突然世の中に出ているようなものですから、それでは毎日の生活を一日足りとも続けていけないわけですね。
ですから、自分のイメージが持てない少年少女達もなんとか、仮のでもいいですから出来合いのイメージ、間違っていても、嘘っぱちでもいいから自分というものをなんとか作り上げようと必死に自分のイメージというものを探してきているのですね。
そのように正しい自分のイメージが出来ていない少年少女達が、では、どうやって仮の自分のイメージを作り上げるかという事なのですが、それにはどうも大きく分けて2つのパターンがあるような気がします。
1つは、自分で自分のイメージというものを作り上げることが出来ない子供たちがどうするかといいますと、親が作ったイメージをそのまま借りて、それが自分だと思い込んでいる、そういう子供たちです。

一言で言えば、これはとても良い子、いわゆる良い子と言われているようなそういう子のパターンです。ですからその子たちは自分で自分がどうありたいとか、自分で自分がどういう人間かというより先に、親がどうあって欲しいか、親が自分に何を望んでいるか、というのを先取りして常に考えて、それが僕なんだ私なんだと思い込んでいる訳ですね。

例えば私が診ていたある中学生の男の子は、そろそろ中学3年生になるという時になって、自分で望んでサッカー部を辞めたのですね。まあ、受験も近いからということで自分で自らサッカー部を退部したのです。それは全然親が「サッカーなんか辞めなさい」と言ったわけでもなくて、誰に強制されたわけでもない、自分で退部したわけです。その子は後で家庭内暴力を起こして病院に来たわけですが、よくよく聞くとそれは全然自分で辞めたかったから辞めたわけではなくて「親が辞めて欲しいなと思っていると思うから辞めてやった、」と言うのです。
その時点においては親のために辞めたとか、親が望んでいるから辞めてやったということは全く表さないで、自分で「僕は受験が近いからもうそろそろクラブ辞めるよ」なんて自分で言うわけですね。すると親も安心して、「あなたがそういうふうに言うんだったら一生懸命頑張って勉強しなさい、ああ良い子だね」って言って、親の希望と子供の希望が一致したと思い込んで、辞めるわけなんですけれども、後から聞くとどうもそれはその子供が勝手に親の気持ちを先取りして「親もそろそろクラブ辞めて欲しいと思っているだろうから辞めてやった」というように、常に「親が自分に対して何を思っているのだろうか」とか、「何を望んでいるのだろう」というのを先回りして考えてそれに合わせて振る舞ってしまうというような、そういう子達も、最近とても増えています。そういう子達は親からみると手がかからないし、親が何も言わなくても自分から勉強してくれるし、なんでもやってくれるというような、いわゆる良い子なわけなんですけれども、それだけじゃ済まないのですね。
それでその先いろんな問題を起こして私のところにやって来るということになります。一つはその子達が起こす問題、サッカー部を自分で辞めた男の子もそうだったのですが、そうやって「良い子だね」と親に誉められているうちはいいのですが、やはりどこかで「なんかこれは自分が望んでやっているわけじゃない、自分は木偶の坊みたいな、親に操られているのではないか」とそういうことに気づき始めるわけなのです。あるいは親にとっての良い子というイメージで行動しすぎているために「自分が少しでも良い子でなくなったらもう親に見捨てられてしまうのではないか」という不安が大きくなってくるわけです。
それで、先ほどのサッカー部を辞めた子の場合はどうなったかというと、この子は親が望む通りに高校に入って、良い子だったんですけれども、さらにもっと良いお姉ちゃんがいたのですね。それで、その良いお姉ちゃんというのがその男の子が高校生の時に現役で、いわゆる一流大学に合格したんです。
その時は家族みんなで喜んで、この男の子も一緒に喜んでいたのですけれど、ある日この男の子が外を歩いていたら近所のおばさんが、「お姉ちゃん大学入ったんだってね、どこの大学に入ったの」と聞かれて、その子はここでも良い子をやって「はい、ナントカ大学のナントカ学部ナントカ学科に入りました」と答えたのですね。それで家に帰ってきてお母さんにそれを報告したのです。「お母さん、今日僕ねこう聞かれたから、こういうふうに答えてやったよ」ここでもその子は親にとっての良い子をやったと思っていたのです。
ところが答えた学部だったか学科だったか一部が間違っていたのですね。アンラッキーなことに。そうしたらいつもだったらお母さんは「よく答えたわね」って言ってくれるのに、その時はパッと顔色が変わって「違うでしょ、お姉ちゃんが入った学校はそこじゃないでしょ。」というふうに怒ったのですね。
それでお母さんはさらに「ちゃんともう一回言い直してごらんなさい。お姉ちゃんの入った大学名をちゃんと言ってごらんなさい。」というふうに言い直しまでさせられたのですね。そうしたら今迄ずっと良い子をやってきたその男の子は、そこでものすごく傷ついたのですね。「自分というのは結局お姉ちゃんの大学をちょっと間違ったぐらいで、全部否定されてしまうようなそんな存在だったのか。そこでお姉ちゃんの大学をうまく言えれば良い子だけれど、それがちょっとでも間違ってしまうと、途端に自分ってものの意味は無くなってしまうのか。」ということにカチンと気づいちゃったのですね。
その次の日から手のひらを返したような物凄い家庭内暴力が始まったのです。机をひっくり返したり、カーテンを引き裂いたりとか荒れ狂っちゃったわけです。サッカー部の話は一例ですけれども、こういう子の場合は、これまで自分がいかに親のために良い子をしてきたかということを、今迄はそれを自分も望んでやってきたはずなのに、いったんそこで傷つくと今迄のことが全部マイナスのこととしてよみがえってくるのですね。
この男の子の場合も毎晩親に2時3時まで詰め寄って今迄やってきたあれもこれもどれも全部自分は親のためにやらされてきた。サッカー部を辞めた事も「あの時は自分は中3になってもサッカーやりたかったのに、おまえらのために辞めてやったじゃないか。」とか、「あの時俺はナントカ高校に行きたかったのに、おまえらがあんな高校じゃ恥ずかしいと思うかもしれないからこっちに行ってやった。」とか、「今までやってきた全てのことはおまえらのためにやってやった、どうしてくれる。」ってことで毎晩拷問のように親に詰め寄ったのですね。
それで、「今迄の時間を返してくれ」とか「今迄自分が払ってきた犠牲を弁償しろ」とか、まったく応えられない理不尽な問いをずっと親に突き付け続けることをして、それで病院にやって来たのですけれども。そうやってずっと良い子で親の思う通りに育ってきたのに、そうやって育っていくと同時に心の中に自分はつまり良い子であれば親に大切にされるけれども、少しでも良い子じゃなくなると親にとっては無価値じゃないか。
そういう不安が大きくなっていって、ある時ちょっと傷を付けられただけで爆発してしまう、そういうパターンですね。また、そこでなんとか思春期に破裂せずにそのまま大人になる良い子っていうのもいるのです。まあ皆さんの中にもそんなふうに大人になった良い大人というのもいると思いますけれども。それはまたそれで非常に問題なんですね。
私は最近病院にいて思うのですけれども、「若い人とか子供が問題起こすのはもうしょうがない、当たり前だと、子供が悩んだり苦しんだり荒れたり暴力を起こしたりするのは仕方ない」って気がするのですが、その前に大人の人達をなんとかしてくれよって思うのです。というのは良い子が大人になった、私たちは「良い子の成れの果て」と言っているのですが、人達が起こす問題というのが最近すごく多いんです。
例えば、罪の無い方からいきますとですね、皆さんと同じような年代の方で、大人になっても良い子でいたいがために、自分のお子さん、幼稚園児とか赤ちゃんとかその子を使って自分の親から自分が良い子って思われたい。比喩的に言うと「自分の子供を自分の親への捧げものにしてしまう」というようなそういう人がよく目につきます。
例えば、これは病気とかそういうのではないんです。患者さんではなく、私の知っている人で、生活の知恵ってレベルなんですけれど、自分の子供を連れて実家に行くとおばあちゃんが喜んで、孫にご飯を作ってくれたりするわけですね。すると我が子に「おばあちゃんの作る料理は世界一」というふうに言わせるんですって。「そうやって言うのよ」というふうに子供にしこむのです。だから子供は必ずおばあちゃん家に行くとどんな物を食べても「おばあちゃんの作ったお料理は世界一ね」って言うわけです。
するとおばあちゃんはもちろんすごく喜びますよね。私の知っているその人は自分をよく見つめる人なんですけれど、それはおばあちゃんを喜ばせるためにやっているのではなくて「そんな事を言う可愛い孫を産んでくれたあんたは良い子だね」というふうに、あくまで自分がやっぱり誉められたい。親を喜ばせたいっていうことが第一目標ではなくて、そんな良い子を産んでくれたあんたはもっと良い子だねと自分が誉められたいがために自分の子供を使っている、とその知人は言っていたのですけれども。
これはまあ普通のレベルだと思うのですけれども、それがもっと昂じてしまって、子供がどう思っているかとか子供にとってどうしたら良いかを考えられなくなって、ずっと良い子でいた人は、自分の親が自分にどうして欲しいかまず考えて先取りして行動すると言いましたけれども、それを自分の子供にもしちゃう。自分の子供がどう振る舞っていけば自分の親が喜ぶかということを常に考えちゃって、例えば自分が女の子でお母さんは私に対して科学者になって欲しいと思ったけれども私は女の子で出来なかった、それで息子が生まれた場合はその子を科学者にしてしまう。
「私が叶えられなかった親の願望を子供を使って叶えてあげましょう」っていうような世代を超えた三世代にわたる親の願望の実現と言うんですかね、そういう事をしてしまう。それはどうしてするかって言うと、子供のためにしてあげるのではなくて結局は、「親の願望を叶えてあげるような良い孫を産んでくれたあんたはやっぱり良い子だったんだね」と思いたがられている。だからいつまでも親の子供から抜け出せない、本当は子供の親であったり、夫に対しての妻であったりするわけですが、いつまでもそうやって親にとっての子供、その関係性から抜け出せない、そういう親っていうのが非常に増えているような気がします。
それはどうして不幸かと言いますと、一番不幸なのは子供ですよね、いったいその子供っていうのは何のために生まれて来てしまったのか。自分のおじいちゃんやおばあちゃんを喜ばせるための道具みたいな、捧げ物、貢ぎ物として生まれて来てしまったようなそういう子供ですから、さっきのでくのぼうみたいな子供の、さらにでくのぼうみたいな、その子の意志とか希望とかそういうものがまったく無視されてしまうわけなんですね。操り人形みたいなそういう子供が出来あがってしまう。
だからそれは世代間に綿々と繋がってしまうわけなんですね、するとまた孫にあたる子が思春期になって爆発したりとか、そういう事が綿々とパターンになっている人もいます。あるいはもっと悲惨な例で、私達は中年反抗期というのですけれど、ずっと問題が起きることなく子供を貢ぎものにしたりなんだりしながらも、大きな破綻無くきた親自身が、子供さんが小学生や中学生になってちょっと手が離れた頃になると、ふと自分の人生を振り返るわけですね。
まあ、それは誰にでもあることですよね、「私も40過ぎちゃったけれども、いったい私の人生は何だったんだろう」なんて考えますよね。それは誰でもすると思うんですね。それでそう考えた時に、自分の夫は働き盛りで仕事を一生懸命やって、休みの日には釣りをしたり職場のサッカーチームに入ったりして楽しそうにやっている、子供は子供で自分の手を離れて学校の友達なんか出来てそれなりに楽しそうにやっている。「で私は?」って考えた時になんだか何も無いみたいな、ちょっと空しいような、「いったいなんだったんだろう今迄の人生」と、ふと寂しいような気持ちになってしまう、そういう事っていうのは誰にでもあると思うんですね。
でまあ、それからいろいろな解決の方法があるでしょう。例えばそこで、あきらめないでこれから自分も頑張ろうって思って仕事に行く人もいれば、またはカルチャースクールに行って趣味を身につける人もいれば、恋の花を咲かせましょうって感じで不倫をするとかいろんな人がいる。「人形の家」という小説は目覚めた女性が家を出てしまうという話でしたが、そういうふうに古今東西昔から、40代位の主婦の人が突然「今迄私って何だったんだろう」と考えるってことはよくあるんですね。
今までは、その時に今言ったように解決を、恋であったら異性、仕事であったら社会や周囲とか、そういうふうに外に求めたり、自分と身近な対等な人間関係、友達とおしゃべりして愚痴を言い合って悩み解決っていう人もいると思うんですけれど、そういう中で解決しようとしていた人が多かったんですね。ところがここ数年、「今迄私って何だったんだろう」と考えた時に、「そうか、私は今迄自分の親のために生きていて親によってこんなふうになってしまったんだ。」というように、その時に自分の親のことを思い出す人が多くなっているんですね。
それで、その女性は「そうか、私が今こんなふうになんとなく不満があったりうまくいかないのは親が悪いんだ。親のためにこんなふうになってしまったんだ。」と思って、それだけでは済まないんですね。必ず行動に出るんです。例えばある人は、自分の母親に電話して突然言うんです。「今迄私はあんた達の為に全部我慢して、あんた達の思うようにやってやった、それでこういうふうになってしまって、私の人生がメチャメチャになってしまった。私は今迄自分のやりたいことを何一つやれなかったんだ。」というふうに、親といっても、もう70歳とか80歳とかで、おばあさんおじいさんですよね、その人に突然文句を言う異議を申し立てるというようなそういう人が凄く多いんです。親としてもビックリですよね。
もう70とかになって、自分の娘も幸せに家庭を持って孫も出来て良かった良かったなんて思って、これから老後を楽しみましょうなんて思っている矢先に突然自分の娘から、地獄の底から響くような恐ろしい声で「もしもし」なんて電話がかかってきて、「私よく考えたんだけれども」っていうふうに言われるんですね。そういうふうに言う女性達っていうのは別に全然ものわかりが悪いとか、頭が鈍いとかそういう人では全然ないんですよ、むしろ一生懸命それまでやってこられて、まじめに家庭を作ってこられたり、勉強も一生懸命やって良い学校を出られたりとか、そういう人達ばかりなん
ですが、そういう人達なはずなのに、考えられないような無茶苦茶なことを親に言うんですね。その無茶苦茶さっていうのが、先ほどの家庭内暴力の中学生のレベルと全く同じなんです。まず言うのが「時間を返してくれ、今迄あんた達の為に全部我慢してこうやって暮らしてきた、私の青春を返してくれ。時間を戻してくれ」というふうにまず言います。それで親が困っていると、次に言うのは、そういう人達はなんだか知らないけど自分のレートで計算して「今迄あんた達の為に25年間我慢してきたから、25年分例えば3200万円払え」とかお金の要求をするんですね。
それはどうやって計算するのかその人によって違うんですが、具体的な金額をほとんどの人は言うんです。それが理不尽な無茶苦茶な金額、だけど具体的な数字で親に要求するんですね。親は、今迄本当に良い子で、ものわかりが良くて分別もあった自分の娘が、何故突然自分に対してそんなわからずやな無理難題を突きつけて来るのか途方に暮れてしまいますよね。その中年反抗期みたいなものというのは、子供の思春期の反抗期と違って本当に悲惨ですよね。思春期の子供達だと親も元気だし、「うるせぇババァ」とか言われても「何言ってるの」とか言ってさっぱりと過ぎていく事が多いですが、もうお互い大人の40歳の娘さんと70歳のお母さんと遣り合って非常に傷付け合う。
お母さんとしても今迄の自分の人生が全部否定されたような、それこそ我が子にとって良かれと思ってやってきた事が全て否定されてしまう。先ほどの子供と同じですね、「私はあんな学校に行きたくなかった、あんな男と結婚したくなかった、こんな家に住みたくなかった」と、全てその人に良かれと思ってしたことが全て否定されてお母さんとしても傷ついてしまうし、言ってしまった本人も傷ついてしまうんですね。でもそれは、よくよく聞いてみると本当に親が憎くくてやっているのかといえば、どうも違うようなんです。
その理不尽な金額を言うっていうのも結局3200万円とか言ってももちろん払えるわけないですから、「払えるわけないでしょ」と言って押し問答になるわけですけれども、どうも見ているといつまでもいつまでもブチブチ文句を言って40歳の子供はお母さんにまとわりついていたいんです。そこで、もし大富豪の親で「3200万円、実はあるんだよ、はいどうぞ」なんて言われちゃったら言われた方の人は、3200万円はラッキーだけれども非常に寂しい気持ちになってしまうんですね。よく家庭内暴力の子を持つ親としては、「もうお金で解決するならそうして欲しい」と言います。
皆さんはお子さんが小さくて可愛い盛りだからそんな事とても信じられないかもしれないけれども、「もううんざりだ、もうこんな毎日毎日寝かしてももらえないで、自分に暴力ふるう子供はもううんざりだから、お金100万円でも200万円でも払って、いなくなってくれるなら、もうそうして欲しい。もう家から離れて欲しい」という親もたくさんいるんですが、絶対家庭内暴力する子供って出て行かないんですね。
なんだかんだと言って出て行かない。必ず言うのが親に邪魔されて出て行けない。そういう子っていうのは、「もう家を出て行きたい、一人暮らししたい遠くに行きたい」とか言うんです。
親も「どうぞ行って下さい。アパート借りたいなら敷金も礼金も出して上げるからそうしなさい」と言っているのに、子供の方は「本当は俺は出て行きたいのに親が止めた」とか「邪魔した」と言うんです。でもそれは逆でやはり子供が出て行きたくないわけなんですね。
暴力をふるったり、理不尽な要求を突き付けるのもいつまでも親にまとわりついて、しがみついて、子供がグズグズ台所で仕事をしているお母さんの足元で邪魔したりしているのと同じような感じでいつまでもまとわりついていたいというそういう感じですね。
昔は高校生ぐらいでそういう人が多かったのですが、今はなんと40代、私が聞いた一番高齢のケースは54歳の娘が79歳のお母さんに対して中年反抗期に突然なったというケースですが、その54歳の女性という方も、やはり地位のある方で社会的にもきちんと仕事をやってこられた方なんですけれど、ある日突然「兄弟の中で私だけが母親に愛されてなかった。」と言い出したのです。
それでそれをどうしてくれるっていうふうにお母さんに言い出しはじめて、兄弟の人達はビックリして、「お姉さんどうかなっちゃったんじゃないかしら」とあわてて病院に相談に来られたんです。それはどうかなっちゃったんではなくて中年反抗期の現象だけれども、一方ではお母さんもいよいよ年老いてもしかしたら亡くなってしまうかもしれないというその不安、先ほどの良い子でなくなったら見捨てられてしまうかもしれないという不安が姿を替えたものですよね。自分のお母さんが年取ってしまってもう死んでしまうかもしれない、つまり自分を見捨ててしまうかもしれないという不安がこころの中に芽生えて来た。
自分の親が年老いていくのは悲しいことだし、死んでしまうということはもっと辛いことで、でもそれは人間誰でもあることだと思うのですね。
今までは、「私ももう大人なのだから」とか、「私にも子供がいるんだから」という、理性とか分別とか、表面的なことではあるかもしれないけど一生懸命やせ我慢のようなことをしてきたわけですよね。親にいつまでもすがりついていたいし、「お母さん元気でいてと言いたいけど私も子供がいてこんな年齢なんだから我慢して過しましょう」というふうに自分で自分を収めることができたわけなんですが、どうも今、その歯止めが効かなくなっている。
いつまでも親にとっての子供であることを卒業できない。自分自身も親であったり、54歳ならばもしかしたらおばあちゃんかもしれないのだけれども「自分の親にとっての娘、息子」というそっちがいつまでも比重が大きい。
だから、親が亡くなってしまったら、親にとっての良い子でいられなくなる、今迄は親が望むようにやってくれば人生うまくいって来たけれども、その親がボケてしまったり死んでしまったら、親がどうすれば喜んでくれるかという指針も無くなってしまうわけですから、不安でどうしようもない、その時にその不安の裏返しで攻撃してしまうということですね。
親に対しての愛情とか不安をうまく表せない、そういう悲惨な、良い子の成れの果てと言うんでしょうか、そういう人達が最近とっても増えているんです。だから皆さんのような年齢またはそれ以上の方ですけど、とても自分自身の問題で精一杯で自分の子供を健やかに育てるにはどうしたら良いかという事より、自分と親の関係をどうしたらよいか、そちらをまずなんとかしなければ、とそういう人達がとても増えているんです。
また「いつまでも私は親の子供でいいんだ」そういう雰囲気も世の中全体にあるかもしれませんね。最近「日本一短い親への手紙」という本が数年前に出て、親への尽きせぬ愛情を手紙にするという本ですが、そういうふうに親がいつまでも好きというのは日本では昔から「かあさんが夜なべをして手袋編んで…」という歌にもあるように、そういう感情というのはいつも在ると思うのですが、それを最近もっとオープンに言っていいんだみたいなそういう雰囲気が世の中全体にあって、それももしかしたら中年反抗期を多くしているのかもしれません。
ただ、親への尽きせぬ愛情、感謝とか親孝行は良い事なんですけれど、親に対しての感情というのは必ず裏表なわけですよね。だから、先ほどの中年反抗期で親に楯突く娘も親にいつまでもしがみつきたい、というすごい大きな愛情がある、というのと同じように、親に対して「お母さんありがとう」みたいなそういう事をずっと追求していくと必ず親に対しての恨みとか、憎しみとかも必ず出て来てしまうのです。
その「日本一短い親への手紙」の本も面白いことに、その次に「日本一醜い親への手紙」という本が出たのです。
それは、最初パロディーで日本一短い親への手紙があるのだから、親に対して「あんなことしてくれてひどい」というようなそういう手紙も集めたら面白いだろうと、ちょっと冗談で編集者が作ろうとしたんですけれど、来るわ来るわそういう親への恨みつらみの手紙が殺到してその本自体も22万部も売れたそうなんです。
いつまでも親が自分にした仕打ちを忘れられないという気持ちは親にいつまでもかまってもらいたいという気持ちの裏かもしれないですね。世間を見ても「お母さんありがとうお母さん大好き」という気持ちと「許せない憎い」っていう気持ちがパワーアップして、親というものに対してみんなの目が向いていて子供に向ける余裕が無い。
自分と親とで精一杯というようなそういう大人がすごく多いと思います。その辺が、今子供たちが大変という事とちょっと関係しているのかもしれないですね。
まあ、私自身もそういう事を言えるほど親から自立しているかと言うとそうでもなかったりするので、これは自分にも戒めで言いたいのですが、親が好きだったり気になったりするのは誰でも同じなんだけれども、そこでちょっと我慢をして私は大人なんだからという気持ちを持ち続けなければと思ったりします。
それが、良い子が陥る問題でしたけれども、もう一つ最初に言いましたように、自分のイメージを掴みきれない子供達がとる行動パターンとしてもう1個あります。今、自己中心的な子供とか、自分勝手な子供とか全く他人に配慮できない子供が増えているなんて言われています。キレる子供とか、他人には全然同情できなく冷たくて、ちょっとしたことにすぐカーッとなって恐ろしい事をしてまうとか、自分中心で、尊大な子供達が増えていると言われていますけれど、彼らのような子供がどうして出来てしまうのかとよくよく見ると、彼ら自身もそうなりたくてなっているわけじゃなくて、自分のイメージを掴みきれていないためになっているんじゃないかなと思う事があります。というのは、自分のイメージを掴みきれない子供たちというのは、どこかから自分のイメージを借りて来て仮の自分のイメージを作らないと生きていけないとさっき言いました。ではどこから借りて来るか、さっきの子供たちは親の良い子というイメージを借りてきていましたよね。
そうでない子供たちはどうするかと言いますと、もっともっと小さい時1、2歳の時に、子供は最初に自分のイメージを手に入れるわけですね。それはどういう自分かというと、宇宙の王様みたいな自分です。自分が望めばなんでも叶う、例えばワーンって泣けば、すぐおっぱいが出て来る。おむつが濡れてギャーって言えば、何にも言わなくてもお母さんが替えてくれる。ワーとかギャーとか言えば世の中が全部自分の言う通りに動いてくれる。
そういう経験は誰でもするわけですよね、そういう中で、そうか自分っていうのは宇宙の中心なんだ、自分の思い通りに世の中は動くんだ、そういう万能の自分っていうイメージを子供っていうのはまず手に入れるんですね。その万能の自分のイメージを手に入れるということは子供にとって必要な事なんです。そこで満たされた気持ち、自分は宇宙の中心ですごく幸せな自分のイメージを手に入れるわけです。でもその自分のイメージは、幼稚園に入る頃になると「なんか違うな」と気づいていくわけですね。自分が宇宙の中心とか思っていたけれども、幼稚園に行くとどうもそういうやつがたくさんいるみたいだ。
こいつもこいつも同じように思っている。どうも世の中は自分と自分にかしずいてくれる大人だけで出来ているわけではなくて、自分と同じような他人もいるようだということに段々気づいていくわけですね。それで、1、2歳の頃の「万能で世の中の中心」というイメージを少しづつ修正していくわけです。「ああどうもそうじゃない。自分だけで出来ているわけじゃない、世の中私一人じゃないんだ」っていうことを学んでいきながら思春期になるにつれて正しい自分のイメージというものを手に入れていくわけです。
ところが、思春期になっても正しい自分のイメージを手に入れられない子供さんというのは、どうするかというと、結局はその1、2歳の時の万能の自分のイメージにすがり付いていくしかないんですね。だから、14、5歳になっても世の中自分の思い通りに動くはずだというイメージを捨て切れないまま14、5歳になってしまっているわけです。そこで、それが少しでも傷つけられるような、人から批判される、注意されるということになるときキレてしまうそういう子供たちですね。
だけど、その万能の自分の殻の中には弱気で内気で臆病な自分の核みたいなものがある。なんとかその弱い自分を守って行かなければいけないために、1、2歳の時の殻を自分の周りに纏っていて、それで、そこを少しでも傷つけられるとキレる。そういうタイプのお子さんです。
そういうように、良い子型と自己中型と2つのタイプのお子さんが最近よく目に付くのです。良い子と自己中じゃ全然違うように見えますが、どちらも根本は適切な自分のイメージが出来ていないというそこから来るような問題ではないかというふうに考えています。まあ、結論のようなものは後にして、途中なんですが皆さんの質問やご意見がありましたら先にお聞かせ頂けますでしょうか。

 

質問者:私には小学校と中学校、高校に行っている子供がいますが、もしその子たちが家庭内暴力とかした場合親はどのように対応していったらいいのでしょう。ただ、受け入れるようにした方が良いのか、それとも向かい合って戦った方がいいのか、どういう対応の仕方があるのか教えていただきたいのですが。それと、私も中年反抗期と言われる年齢にいるのですが、私自身にも思い当たるふしというのがあるのですね。もし私の両親が亡くなった場合、もちろん先生が診られたケースでいいのですが、親が亡くなった場合その人はどのような状態になってしまうのか、この2つを教えて頂きたいのですが。
質問者:家族など縦の関係の人でなく、友人とかに中年反抗期の人がいて悩んでいたりした場合は、アドバイスなどはどうしたら良いのでしょうか。
質問者:青少年の非行とか、青年の犯罪にビジュアルに訴えるようなメディアが関係しているのではないかということが言われていますが、それが与える影響について先生のお考えをお聞かせ下さい。私は子供にはテレビゲームを一切させていないのですが。

 

自分のイメージというものを作り上げられずにあらゆる世代の人が困っている中で、どうすれば良いのかという問題は、本当に難しい問題なんですけれど、一つには、私達大人の世代が、いつまでも親にまとわりつきたい気持ちがあるというのを認めた上で、だけども大人ということで、気持ちを引き締めて、だからといってつまらなく生きるのでなく、まず親自身が楽しく自信を持って生きていくということはすごく素朴だけれども大切な事なのではないかなと思います。今自分のイメージが持てない子供たちに話を聞くと「大人になりたくない」と言う子供がたくさんいますよね。
「大人になっても全然面白そうじゃないし、自分の周りの大人を見てもつまらなそうだ、こんなのなら大人になりたくない」と言う人達がたくさんいますよね。その子達が「あんなに大人は楽しそうだから、私も大人になってみたいな」とそう思えるような大人になっていきたい。ということと、もっと小さいお子さんの場合で言うと、子供っていうのはどんなに愛情をかけて慈しんで育てても自分に関する不安というのは一生消えないわけですね。
というのは精神分析のある考えでは、私達には生まれてから1、2年の記憶って無いですよね。まれに記憶があるって言う三島由紀夫は金だらいで洗われた記憶があるって言っていますが、そういう人は本当にまれで、ほとんどの人は一体自分はどういうふうにして自分がこの世に生まれて来たかということは一生分からないわけですね。
それは大人から聞くしかないわけですよね。例えば親から、「あんたが生まれた時は大雪でお父さんがあっせって走って来て転んだ」とか「おじいちゃんもおばあちゃんも喜んで万歳をした」とかそういうエピソードをいろいろ聞くわけです。それを聞くのはものすごく嬉しいことだと思うんです、それは私達の年になっても自分の親とか周りの兄弟から「あんたが生まれた時はこうだった」という話を聞いたら恥ずかしい反面すごく嬉しいと思うのですね。だけれどもどんなにそれを聞いても絶対心の中では「それは嘘かもしれない」という不安が必ず湧き起こって来るのです。
例えば、子供の時に私もそうですが、皆さんも親に怒られたときに「あんたなんか橋の下から拾って来た子供だ」とかよく言われますよね、これは地方によっていろいろな言い方があるようですが、あるところでは下水から拾って来たとか、ナントカの溝から拾って来たとか。
とにかく拾って来たとか言われますよね、そうするとそれをすごく覚えていたりするとか、子供の時、「私ってもしかしたらヨーロッパの貴族の子供なのではないかしら」とか親とそっくりな顔をしているくせに「私の本当の親は血筋の由緒正しい貴族で私は預けられているのではないかしら」とか思うことありますよね。
なんかファンタジーとかロマンと一緒になってはいるんですけど、やっぱりどこかで「私は本当はこの親の子供じゃないんじゃないかしら」あるいは「あんたが生まれて本当に嬉しかった」と親に言われてもなんか「私は生まれてこない方がよかったのではないかしら」「私なんて生まれて親は喜ばなかったのではないかしら」それはどんなに打ち消しても必ず湧いて来る不安なのです。
逆に言えばその精神分析の理論では「一生はその2年ぐらいの不安を埋めるためにある」と言っているんです。結局仕事をしたりとか、家庭を自分で持ったりして「ああ私はこのために生まれて来たんだな」とか、「私はもしかしたら本当は生まれた時に親に喜ばれなかったかもしれないけど、今はこんなに家庭の中で子供から望まれている」あるいは「会社で自分はこんなに役に立つ人間だ」と思うことで、生まれてからほんのわずか2年間位の空白を埋めているのではないか。
逆に言えばそれほどまでして埋めなければならないほどその2年間の空白は私達の心の中に一生残ってしまうわけですね。
そういうわけで、子供というのはどんなに愛されて、ちゃんと育てられた子供でもそこの不安というのがあって、それをいろんな形で繰り返し繰り返し親に突きつけてくると思うのですね。
例えば悪い事をしてみて、どれぐらいまで悪い事をすれば親が「あんたなんかいなきゃよかった」と言うかどうか、試すために悪い事をする子供もいるわけですね。それは、とりもなおさず「私は本当に生まれて来てよかったのかしら」とか「私は親に本当に好かれて生まれて来たのかしら」「私はこの世界に歓迎されて生まれたのかしら、それとも邪魔だと思われたのかしら」というのを確認したいという気持ちの置き換えで、親に対して悪い事をしたりする子供もたくさんいるわけですね。
先ほど子供が家庭内暴力を起こした時親はどうしたらよいかという御質問がありましたが、それは本当に難しい問題で、一つには「それはもしかしたら子供が根本的、根源的にある不安を親に突きつけていることもあるかもしれない」そう考えた場合に親は動じないと言うんでしょうか、子供がいろんな事を投げかけて来たり突きつけて来たり、鏡にして写しだそうとした時に、その鏡になってあげる親が揺れ動いていたり、自分の親の方を見ていたりとかして子供はますます不安が大きくなってしまうので、子供が良い子の時も悪い子の時もたかだか子供は子供というか、子供が良い子の時はワッと喜んで、もちろん喜んであげる事は大事なんですけど、逆にちょっとでも良い子じゃないような事をするとアーッとがっかりしてしまう、そうすると、子供というのは自分というものの価値というのは一体どこにあるのだろうと不安になったりします。
子供が良い子の時も悪い子の時も「その子」という感じで、親が動じないように、壁のように鏡のように同じものを写してあげる。子供は不安でいつも姿を変えるけれども、写してあげる鏡の方は同じ姿を写し返してあげる。そういうふうにするという事は、ひとつ役に立つかもしれないです。とは言っても、子供が問題を起こした時は親はオロオロするし難しいんですけれどもね。
それで、中年反抗期についても先ほど質問がでました。中年反抗期の人の親が亡くなったらどうなるかということですが、まあいろんな人がいましたね。ある人はずっと親に対して反抗期みたいな感情を持っていて、亡くなる直前に母親に「いい子いい子」をしてもらったんですって。
「お母さん私にいい子いい子をして」と頼んで、してもらって、それで亡くなって、「私は全てが許せました」と言っていた人もいました。さっき反抗というのは愛情の裏返しと言いましたけれど亡くなるということをきっかけに親に対してのそういう愛情と反抗や憎しみがせめぎあうというのが
無くなりパーッと融解して、それで親に対しての感謝とか懐かしい気持ちそういうふうに解決するというケースも結構ありますけど、なかなか親が亡くなったという事を自分で受け入れられなくて、亡くなった後も親に対しての感情が次々湧いて来るそういう人もいます。ですから、それは色々なんです。
中年反抗期みたいになっている自分を自覚している人、自覚してない人に対してどうアドバイスすれば良いかという質問もありましたが、まあそれが自分にとってどういう友達とか家族かとかによって別なのですが、一つには知り合い、友人ぐらいのレベルだったらあまり巻き込まれない方が良いかもしれないですね。私達はそういう仕事なので距離を置いて、お仕事だからと思って付き合っていても、そういう中年反抗期の自分と同じくらいの人を見ていると、自分の中でもそういう感情が刺激されて親の事を色々考えちゃったりするわけですね。
それはお仕事で距離を置いてもそうなので、友人とかだったら相談にのっているつもりで、自分もミイラとりがミイラになるみたいになってしまって、私の場合はどうだったろうなんてそういう感情が刺激されて、ドロドロになることもあったりするので、よく私も「お友達から相談されたらどういうふうに答えたらいいですか」という相談受けるんですけれど、本当に悩み事の相談というのは大変で聞いてあげるだけで相手も落ち着いて解決する事も無くは無いですけど、あまり親身になりすぎてあげるというのは、お互いに良くないことが多いですね。
やはり親身になってあげると、相手も、もう際限無く依存してきて、自分の心の中の今までフタをされていた部分まで、ぶつけてきたりして、お仕事だったら病院だったら「今日はここまで」と帰れるわけですけれども、お友達だったらそうもいかないでしょうから、もう自分も巻き込まれているうちに自分も相手もドロドロとストレスを感じてしまう事もあるので、逆にある程度事務的にふんふんふんと聞いて「じゃーね」と行った方が、相手もいいし自分もいいという事も結構ありますから、あまり悩み事相談には巻き込まれない方が身のためかもしれないです。
また、あまりズバリ指摘して「あんたはあんたと親の問題を解決していないんだ」なんて言ってもその人達は、そういう事をズバリ言われると、今度は抵抗という心のしくみがあって、真実をつかれると怒るとか、真理をつかれると逆にそれを拒絶してしまうという、人間の心にはそういうしくみもあるんですね。
だから、ズバリ式で答えを言ってあげると、かえって向こうは怒るとか「そんなことない。」って否定するという事になりかねないので、「自覚させてあげればいい」って問題でもないです。まあ、「こういうことがある」って皆さんが知っていれば、そういう人を見た時とか、話を聞いた時も「ああこの人にはこういう事が起こっているんだな」というふうに理解できる。それくらいにしか役立たないかもしれないですね。
最後の、「ビジュアルに訴えるゲームとかいろんなメディアが多くて、それと少年犯罪なんかが関係あるんじゃないか」という御質問がありましたが、確かにこれほど視覚的な刺激が強い時代というのも無かったわけで、こういう特にテレビゲームなんて五感に訴える遊び、凄い音、凄い映像で自分も一緒に体感したりしてそういう物は今迄なかったわけですから、「それが人間の心理にどういう影響を与えるか」というのは、やはり大事な問題だと思います。
ただ、今のところゲームとか暴力的なテレビというと、即そのまま悪い物という感じで見られてしまって、実は科学的な研究というのは、まだほとんど研究されていない状態なのですね。まだ「テレビゲームをすると本当に心が歪んでしまうのかどうか、暴力的な映像を見ると本当に暴力的な子供が育つのか」という事は科学的な研究がそれほど進んでいないのです。
それは、本当に私もこれからやっていきたいなと思っているのですが。ただ、私自身の経験では、むしろテレビゲームとかによって救われたというような、そういうケースをたくさん見てきたのです。
さっきも言ったように、親とうまくいかなかったり、学校でうまくいかなかったり、生きにくいというようなそういう閉塞感とか居場所の無さみたいなものを抱えているお子さんとかたくさんいますよね。
そういう子達にテレビゲームというのはすごく優しいわけですね。皆さんの中にも好きな人がいるかもしれませんが、私も好きなんですが、テレビゲームの電源を入れるとゲームによっては「よくいらっしゃいました。」とか「よくお帰りなさいました。」とか言ってくれたりする事もあって、「こんなに私を待っていてくれる世界がある」と、なんかすごく嬉しかったりすることもあるんです。
私みたいに大人で、ちゃんと仕事をしていても、それでもそういうゲームで諸手を上げて歓迎してくれるという、とういう事をされるとすごくいい気持ちで、「この世界は私がいなければ動かないんだ」というように実感するとすごく嬉しかったりして、たぶん学校に行けないとか、家の中でうまくいかない子供にとっては居場所が本当に無いので、ゲームの中ででもそういう自分の居場所みたいなものを強烈に実感させて貰えるっていうのは、マイナスばっかりじゃないんじゃないかなって思うこともあります。
私が診ているのは、もともと問題を抱えているお子さんなわけですが、例えば不登校だったりして、それでゲームの中に自分がとにかく安心して参加できる場所を見つけて、そこから立ち直って行ったというような、まあそんなにきれいに進んで行ったわけじゃないんですが、結果的にはそうなったようなケースも何例か経験したんですね。
当たり前の事ですが、新しいものには良い面プラスになる面もある、だけれどももちろん危険とかもある。だけど、どうしても私達は危険なら危険、良い面なら良い面どっちかしか見れないで、偏った判断をしがちです。
けれども、なるべく両方を見て、例えばインターネット等も、つい去年ぐらいまではおじさんでもインターネット出来ないと遅れているみたいな、又はばら色の世界みたいに言われていたのに、ちょっと事件があったりすると今度は恐ろしい犯罪の巣窟みたいに言われたりして、極端ですよね。
マスコミの対応なんか見ていてもね。どうしても私達も極端に振り回されがちなのですが、まあ良い面悪い面、両方客観的に見られるような余裕と言うんでしょうか、それはきっと私達の方に両方見ることができる余裕とか度量みたいなものが無いと見れないんでしょうけど、なるべくそういうふうに見ていきたいと思っています。
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幼稚園協会幼稚園マップ

 

今日は自分が風邪をひいていることもあって、なんか気が弱くなる話ばかりしてしまったかもしれませんけど、全体的に見れば、今は楽しい事もいっぱいあるし、いろんな情報もあって、やろうと思えばいくらでも何でも出来て、いろんなものにとらわれなくても、例えばさっき「なかなか私達大人になれない」と言いましたけれど、それだって悪い事ばかりじゃなくて、40歳になって大学に入り直すとか、50歳になって人生やり直すという事も認められるような良い世の中、というふうにも考えられますよね。
なだいなだ先生の講演(H9.6月)

玉木 正之先生の講演(H10.1)

養老 孟司先生の講演(H10.6月)

 

 

 

そんなに無理して大人にならなくても、子供のまま楽しく、例えば私なんかも40近いのにテレビゲームを一生懸命やったりしても、陰では「なんだアイツ」と思っているかもしれないけど、別に誰も表立っては「キミキミやめなさい」とか言われないというのは、すごい楽しい世界だなと思ったりするのですが。そういうふうに自由とか、解放されているとか情報が多いという良さを良さとして味わっていけるという、やっぱり失敗だった、自由になったのは間違えだったというふうにならないような楽しい21世紀にしていけるようにするには、私達の世代がここで踏ん張って、頑張っていかなければいけないかな、と思っています。
皆さんも、風邪には気を付けてください。
長い間熱心に聞いて頂きましてありがとうございました。

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